(3)病気のお話し①内臓火傷の巻
直近で頭を悩ませている問題といえば「食事が食べられない(食べたく無い)」という事についてなのだけど、それを語る前に順序立てて病気の事を語ろうと思う。その順番で無いと、自分で上手く自分に読ませられないので。(難儀やな!)
「食」の事は、私のこの「病」とは切り離せない事だから。
ただな~・・・病気の話、長いんだよね!!長い!何せ3歳から始まってるからね!でも語ろう。これは事実で、私の身に起きてしまった現実なのだから。困った事に頭では「事実で、仕方が無い事だ」と分かっていても、まだまだ心の奥底で「ヤダヤダ信じない!」と拒否っている私が居る。認めたくない私が居ると、最近しみじみ感じる。
諦めが悪くて何が悪い!ネバーギブアップ!・・・いやいやいや、そういう問題じゃないw と一人ツッコミをしつつ。
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事の始まりは、私が3歳の頃だ。ぶっちゃけると断片的にしか覚えてないのだが、親や親戚の話を聞き事態を把握した。
私はそもそも、活発な子供だった。家の中で遊ぶより外を走り回り、木に登り、塀に上り、駐車場の屋根に上り、いつも全力疾走で飛び歩いている子供だったそう。
うん、覚えている。当時住んでいた家は小さなアパートの二階。近所迷惑になるので忍び足で歩けと言われても、そんな事できやしない。飛んで跳ねて家の中でも大運動会な毎日。母は階下の住人から相当口酸っぱく怒られていたそうだ。私はといえば、子供心に家の中で暴れられないなら外で暴れればいい! と、文字通り外を走り回っていた訳だ。
そんな3歳の夏。私は父と親戚と海に旅行に行った。母は弟を妊娠中で流産の危険があった為留守番。その海での事だ。
言葉で簡単に書けば、私は海で迷子になった。波に溺れたのではなく、浜辺で遊んでいるうちに父や親戚たちとはぐれてしまったのだ。
余談だけれど、私は昔から生き物が大好きで、ヤドカリや貝も大好きで、浜辺はとても楽しい場所だった。波打ち際の砂の中は色々な生き物が居て。水に入って泳ぐより、波打ち際をウロウロするのが楽しかった・・・と記憶している。多分そんな事をしていたから、迷子になったのだろうと思う。
てな訳で、夏の海で3歳児迷子になったよ!!(/・ω・)/
「迷子」は大変な事だけど、でもなんだ、たかが迷子か。・・・そう思うよね。私も思うよ。いや、子を持つ母親は自分が居ない海で我が子が迷子とか、蒼白案件だろうけどw
んで、この時の事は、状況をまた聞きした母からのまた聞きなので、実際何がどうだったのかイマイチ曖昧な点があるのだが、どうやら私は半日近く行方不明だったらしい。半日?合ってるのか?わからないけれど、朝からいなくなって、見つかったのは午後というのならそういう事なのか。まぁ時間的な事はともかくとして・・・当時の海は正に「芋洗い」の状況。人ヒト人のごった返した海辺を私は彷徨っていた。このことはちょっと記憶にある。気付いたら周りに知ってる顔が居なくなっていた。(多分勝手に歩き回ったからだw)呼んでも誰も返事をしない。探しても見つからない。そこで迷子だと泣けば良かったのに、強情っぱりな私は泣かずに一人黙々と家族を探して歩いた。泣いたのは、知った顔を見つけた時だった。安堵の涙というヤツだ。
さてここで、ちょっと話を変えてみる。
日本人は黄色人種で、一見白い肌だけれど、日焼けをすると褐色になる。日本人の多くが紫外線に当たる事で肌が日焼けをする。
・・・が、日本人の中にも日焼けをしても赤くなるだけで、褐色にならない人も居る。これは白人種に近く、メラニンの活性化うんぬん~・・・詳細は省きますが、まぁとりあえず、日焼けをしない肌の人も居る訳です。
で。話は戻る。私はコレでした。
紫外線を浴びると赤くなり、赤みが引いた後は肌は元通り白い。日焼けをしないタイプ。そんな肌の私でしたが、真夏の炎天下を半日彷徨い歩けば、紫外線を浴びて【日焼け】をするってものだ。肌が褐色になる人は、紫外線を皮膚の下で跳ね返しているそうで? んで、肌が赤くなる人はその跳ね返しが弱く、内側に紫外線が入り込んでしまうんだそう??? ・・・んん。この辺詳しい説明が出来ないのですが・・・とりあえず、肌が赤くなる人は紫外線対策をしっかりしないと、皮膚の内側までガッツリ紫外線が入り込んでしまうんだそうです。
・・・はい。半日、日よけもせず、日陰にも入らず、ただひたすら炎天下を彷徨った3歳児。見つかった時には全身が真っ赤に腫れ上がっていたそうです。そこで病院に行くなり、冷やすなり対処をすればまだ違ったろうに、当時はまだ「子供は日焼けするものだ!日焼けは健康の証!」みたいな風潮でした。それに同席していた同年代のイトコ達は真っ黒に日焼けした健康な子供で、私のソレも「たかが日焼け」と・・・。
ほんとね。私の肌が、褐色になる肌だったら良かったね・・・。不幸な事に、紫外線が全部内部に届いてしまう肌だったのね・・・。
さぁ、どうなったかご想像の通りです。
旅行から帰って来た私を見て、母は、余りの変わり果てた姿に絶句したそう。
耳は大人の手の平程の大きさまで腫れあがって、顔も腫れてパンパン。手足もパンパン。全身水ぶくれで、見るも無残な3歳児が、泣きもせず無言で帰って来た。測ってみれば高熱もある。意識も朦朧としている。慌てて病院に駆け込むと、熱射病と日焼けによる全身火傷で、しかも酷い内臓火傷の状態。あとちょっと遅かったら危なかったレベルと。
「なんでこんな酷い状態まで放っておいたの!」
医者に怒鳴られ母は声も出なかったそう。でも、母もそんな事言われても!ですよね。心中察します。
私の状態は酷く、皮膚と内臓の焼けた痛みは相当だった筈で、泣かずにいる私に医者は唖然としたらしいです。3歳児が、泣きもせず、しかも旅行中耐えたとは信じられないと。一体どういう事なのかと。
母が私に「痛く無かったのか」と問うたところ、私は「痛いと言ったらもう二度と(旅行に)連れてこないって言われたから我慢した」と答えたのだそうです。
私に我慢するよう言ったのは、先述(2で語った)した祖母です。あの超人の祖母です。彼女が「たかが日焼けだ」と言えば、誰も逆らいません。「おばーちゃんが言うんだからそれが正しい」と、誰もが頷いたでしょう。きっとそんなことだったんだろうと想像できます。
ていうか! 私どれだけ我慢強いのwww 医者が「3歳児が我慢できる筈が無い!」と驚愕する程の火傷を、泣かずに我慢しきったとかwww 我ながら頑固で我慢強くて吹いてしまいます。この性格が災いしていこの結果を招いたとも言えますね。私が我慢出来ず痛いと泣き喚けば、きっと病院に連れていかれたでしょう。我慢してしまったから、その程度と放置されたのでしょう。(この性格についても、まぁ色々あるのですが・・・)
とまぁ、そんな経緯を持って、私は3歳にして内臓火傷を負い、内臓機能が大幅低下する身体になってしまいました。「これからこの子は一生病気をするよ」と、言われたその通りになりました。仕方がありません。内臓がこんがりと焼けてしまったのですから。そりゃ機能だって低下しますよね。そもそも死んでもおかしく無かった訳ですから。
幸いは、脳が沸騰しなかった事。どうやらそれは免れた模様。でも熱中症の状態だっただろうと推察できます。当時はまだ熱射病はあったけど、熱中症という概念は無かったですが、正に命の危機だった海での迷子・・・いえ、私はこれを「事故」と呼んでいます。
だって、事故でしょ? 後遺症があるのだから(==;)
なお、このときの事故を、同席していた筈の父は一切合切まるっきりなにも覚えていませんwww 祖母や親戚も多分記憶してなかったでしょう。覚えていたのは、母と母方の祖母です。祖母は私が病気をするたびに「あの内臓火傷が無ければこんな病気にならなかったんだ」と話してました。私の人生を、私の病気を、何時も案じてくれていた母方祖母。父方に色々思う事が有ったでしょうね。そう思います。
でも、私が言うのもおかしいけれど・・・父方に悪気は一切ないのですよね。彼らは「超人集団」で、体育会系思考の、根性論の人たち。世の中全て「気合と根性」でどうにかするものだと思っている人たちです。実際どうにかしてきちゃった人たちです。(どうにか出来なかった方も居ましたが・・・その方は私と同じく脱落されました・・・)
育児放棄では無く、虐待でも無く、「子供は日焼けをしてこそ健康である!」という考えだっただけです。子供が半日迷子だったのも、迷子になるくらい元気で良い!と思ったことでしょう。そういう人たちだっただけのことです。
この話をすると、普通の人は「父親が一緒に居たのにどうして?!」と言います。でも子育てをした人はご存知かもしれませんが、父親の子に対する危機管理能力なんてそんなレベルですし、ただでさえそのレベルという父+あの超人祖母です。戦時中死線を何度も潜り抜けて生き延びた女性です。病気で肺を片方失っても、健康な人と同じくらい、それ以上に活動し活躍した人でしたから、相手が悪かった、としか言いようが無い。
不幸だったのは、母が一緒じゃなかったことですね。母親が居れば、日焼けを心配したろうし(母も同じで赤く腫れてしまうタイプだったので)、迷子になったらすぐ探し出した事でしょう。でも、母が家で絶対安静を取っていたからこそ、弟が生まれたのも事実です。だからもう、どうにもならない事だった。仕方が無い事だった。これが私の運命だった。
・・・なんて、頭では分かっているんですよ。ええ。仕方が無かったって。でも心の底で誰かが納得してくれないんです。「なんで私がこんな目に?!これが無かったら私の人生違った筈だ!」そういうんです。それに、「うん、そうだよね」ってなってしまう。頷いたら、涙が出るし、悔しいし、苦しいし。
「〇〇の所為だ!」と誰かを責められたらまだマシかもしれない。でも誰も責められない。責めたいとは思わない。いや、責めたらきっと言葉の暴力が止まらないだろうから、言っては駄目なんだろうと思う。
そんな私の心知らず、父親が良く私に言う言葉があるんですが。
「お前はどうしてそんな(病気ばっかり)なんだろうねぇ・・・」
同情の目で、呆れたって口調で、私が体調を崩す度にそういう父。
お、ま、え、が、い、う、な!!!!
という言葉を飲み込みます。飲み込んでしまいます。飲み込むように躾けられているっていうのもあるし、言ったら親子の縁を切ってしまうレベルの喧嘩になると分かっているからです。いつか言ってやりたいけど、でも言えないだろうなぁ。
もしかしたら、言えたらスッキリするかもしれない。そうしたら、こうしていつまでも認められないでグダグダせず、受け入れられるかもしれない。
でもそれは無い。きっと言えば「俺の所為じゃない」「覚えてない」と言い逃れるに決まってますから。余計に腹立たしく思うに違いありません。
先日、同様の案件が父と弟の間に起きたのですが、確実に父の所為なのに必死に言い繕って言い訳して言い逃れして自分の所為じゃないと逃げていました。そういう人なので、「そうか、俺が悪かったのかな。ごめんな」とは何があっても、死んでも言わないでしょう。分かっているので、諦めている。諦めないといけない。これがなかなか出来ずに、いつまでもいつまでも、心の底の私が泣いているんでしょう。その度に、納得したように思っている表の私が心を揺らされてしまうのでしょう。
そうそう。「ネバーギブアップ!」と諦めない私も居て、その私は正に父方の、祖母の根性論を受けて「為せば成るなさねばならぬ何事もーーー!」と気合を必死に入れている。
無理なのにねぇ~(^^;) 壊れた内臓は二度と健康にはならないのにね~。
。。。うん。やっぱりこの案件は、まだまだ語りが必要だなぁ。自分で整理出来てないのが良くわかる。また後日、改めて、気持ちの整理をしたいものです。
こんな感じで、私の病気人生がスタート。これを皮切りに、次々病気になる訳ですが・・・次の病気が、ある種本幹かなと思う。4歳の時の、謎の病気。深呼吸をして、腰を据えて、さて書いてみよう。頭を整理しながらね。文章を書きながら気持ちと頭を整理する。どんどん進めていこう。書いて行く事で、いつかきっと、「落とし処」が見つかりますように・・・。
病気のお話し②謎の肺の病気の巻、につづく