ざっくりモンゴル! 草原の秘密|鈴木裕子 馬頭琴【2】
草原で聴かなくちゃ
馬頭琴の音はたった二本の弦から生み出される。その独特の音色や 爪で弦の下から上へ押し上げる演奏法はとても不思議だ。
未知な世界を手に入れるかのように進化を続けていている電子楽器は言うまでもなく、より綺麗な音、音域の広さを誇る楽器はたくさんある。けれど、大自然から生まれ、人の心に還っていくような音としての懐の深さはこのシンプルな楽器の右に出るものはないのではないか? 馬頭琴の音が表現するのは人のこころと、感知する世界そのものと、名人の演奏を聴いてわたしは思うようになった。人間のこころのサイズにぴったり追いつく! もしかしたら二本の弦でこの表現に辿り着けなかった古の演奏者たちが、多数の弦を持つ楽器を生んだのかも、なんて思いが頭の隅をチラリとよぎる。そんな楽器はもちろん生まれた地、草原で聴いてみたい! その正体を確かめたい!
もちろん頼みはバトウチル先生、という訳でノマドホースキャンプに足を伸ばし、草原の只中と、板張りの食堂、ゲルの3つの場所で馬頭琴とホーミー(モンゴルの伝統的な歌唱法)の聴き比べをする会を催した。卓越した奏者の、同じ楽器の同じ曲。どんな風に聞こえるのだろう。この楽器や曲は大地の上ではどんな風に聴かれてきたのだろう?
結果、場所が違うだけで、こんなに違うなんて・・わたしは「場の力」を思い知ることになった。
遮るものがない草原で奏でられた馬頭琴は、耳に向けてダイレクトに演奏される音に慣れた感覚からすると、あまりに素っ気なかった。音がわたしの脇を駆け抜け、自然に紛れて遠くへと吸い込まれてくようだった。音がわたしを捕まえてくれないし、わたしもその音を捕まえられない。どこまでも広がる大地と空のノイズが、馬頭琴の柔らかな音を攫っていく。馬頭琴は自然に限りなく馴染む。草原の中で音楽という仕切りあるものを聴こうとしていたわたしの想像との違いに唖然とした。耳をすませば馬頭琴だけでなく、大地と空の音がそこにあり、音はその存在そのものだった。
草原は馬頭琴を聴く舞台には広すぎる、、、しかし次の板張りの壁を持つ食堂は、一変してコンサートホールのような響きを生み出した。迫ってくるような強さと華やぎがある。目の前でいま馬頭琴から出てきた音と、わたしの背後の壁から反響したわずかな時間差のある音に挟まれて、サンドイッチされる。ゆったりとした曲は情感たっぷりでそれはすばらしいが、速いテンポの曲は、草原で消えゆく音を追いかけるように聞いたあとの耳にはややうるさい。先生は多くの演奏者はこういう音が映える場を好むというが納得だ。草原で聴いたのをモノラルに例えるならこちらはフルステレオ。お風呂場の中の響きに似ているというか、音の残響が耳に残る。素人なら違うかもしれないが、緩急強弱のついた名手の音にはどうしてもドラマチックすぎる気がした。
次は家畜の毛のフェルトを壁とするゲルの中へ。これがまた違う。とても温もりがあり肌に馴染むような、いつまでも聞いていたいようなやさしい音色だった。音に撫でられ、それがわたしの中へ沁み渡る。通り過ぎるではなくわたしに向けられた音、圧するようなではなく人肌の音。ああこれは揺かごの中の子守唄だ、こころが和んでいくのが止まらない。
先生はせっかくだからと馬上で弾く用に作曲された曲も披露してくださった。馬の上で暮らしてきた人たちは考えることが違う。それを聴いて馬頭琴独特の弦を爪で下から押し上げて音を作る理由に気づいた。それはたぶん楽器から手を離さず落とさずに弾くためだったんだ。
悠久の空のもとに営まれてきた人の暮らし。私たち人はその中で泣き笑い自分のこころの声を聞いて音楽を生み出した。そして音楽は人に寄り添い慰め、その幸せに貢献してきたに違いない。それはそうだよね、音楽は人間そのものだったんだから。音楽という友達に草原で出会う、その歓びがひと気のない草原の暮らしをどんなに潤してきたのか、なぜ馬頭琴に人のこころの広さ全てを表現すると感じたのか、百想は一聴に如かず。空と大地はどこまでも広かった。
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