『ロング・ロング・トレイル』全文公開(15) 第四章 東吉流・世界の歩き方 (2/6)
2018年10月に出版した、木村東吉さんの著書『ロング・ロング・トレイル』を無料で全文公開します。
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パリのめぐり逢い
彼女と出会ったのは、ストライキの影響で乗客が混雑するマルセイユの空港だった。
いや「混雑」というのは随分と控えめな表現である。その時のマルセイユ空港の様相は、まるで戦火を無事に逃れて、安全な国へのチケットを手に入れた難民たちが群がるような雰囲気だった。事実、マルセイユ駅からバスで空港に向かう時に同乗した40歳前後の男性は、無事に空港に着いた時に、見ず知らずのボクに握手を求めたほどであった。
彼女はニースの帰りにストに遭遇し、なんとかバスとタクシーを乗り継いでマルセイユ空港に辿り着けたと、後になってボクに説明した。
最初は大男たちの列に並ぶ彼女の存在に気が付かなかったが、飛行機のゲートが近づくにつれて、彼女と並んでその列を進むことになり、その色白の顔に浮かんだ不安げな表情を認め、ボクは声を掛けた。
「日本……の方ですよね?」
「ええ、そうです」と彼女はボクを見上げた。
よかった。ボクが声を掛けて、益々、その不安な表情が強くならなくて。
おそらく身長160ンチ弱。色白の顔を引き立てるように長い黒髪が、その小さな顔を包み、黒い瞳を際だたせるように、白目が濁りなく美しい。繊細で長いまつ毛が、少し眠たげなその目を縁取り、そこに不安げな表情が加わり、女性特有の脆さを完璧に演出している。
「本来なら今日はニームに行って、明日、パリに行く予定だったけど、この様子では、今日中にパリに戻らないと、日本に帰国することが危うくなるから……」と、ボクは今に至った状況を彼女に説明した。
「私はニースにもう一泊するはずだったんだけど、ホテルの従業員の方がストライキの情報を教えてくれて、一刻も早くパリに向かわないと、鉄道ストライキが南仏全域に広がったら、いつパリに行けるか分からない……と言われて」
そこまで言うと、彼女は急に笑顔になった。
「でも皆さん、ホントに親切で……タクシーの運転手さんなんて、私に小銭を貸してくれたんです。いつ、返せるか分からないのに」
「いつ返せるか分からないのに」と言った時に、本気で返すことができないことを心配している表情が浮かんだ。
彼女の善人な一面を見て、好意を抱く。
飛行機の席につくと、その席は少し離れていたが、ボクは彼女の隣に座った髭面の男に、自分の持てる限りの笑顔でお願いして、席を替わってもらった。
「今回、南仏はどこを回られたのですか?」
席に落ち着くと彼女は訊ねる。
「うーん、まずはパリからTGVに乗ってマルセイユに着き、その夜はブイヤベースを堪能した。で、電車でエクサンプロバンスへと移動して、そこで初めて本格的なプロバンス料理を味わったんだ。これまでにボクが食べたフランス料理というのは、ホントはノルマンディ・スタイルで、プロバンス・スタイルはまったく違うということを、今回の旅で知ったよ」
ボクは覚えたばかりの知識をひけらかす。
今回の旅を通じて得た知識だが、我々日本人にもっとも馴染みのあるフランス料理は、バターやクリームをふんだんに使ったソースが主体のノルマンディ・スタイルで、プロバンスのそれは、どちらかといえば、ハーブやドライフルーツ、それにナッツなどを多用しており、とても奥行きのある味わいだ。
ボクは続ける。
「エクサンプロバンスでレンタカーを借りて、そこからゴルド、ラコスタ、それにルシヨンやメネルブといった、未だにプロバンスらしさが残っている村々を訪ねて、また再び、マルセイユに戻って来たというワケ。ホントはもう一回、あのブイヤベースを味わいたかったなあ……でも、ゴルドで食べたウサギのパテの味も忘れられないなあ……」
と、ボクが説明すると、彼女は大笑いしだした。実はゴルドやルシヨンが、プロバンスらしさを残している、という意見は、当時、ベストセラーになったピーター・メイルの『南仏プロバンスの12ヶ月』からの受け売りである。
ボクはそのことを指摘されるのかな、と顔を赤らめたが、そうではなかった。
「なにか可笑しかった?」と恐る恐る訊ねる。
「だって……まるで美味しいモノを食べるために旅行しているみたい」
そう言われればそうだ。今回は、ミネラルウォーターで有名なボルヴィックの産地であるオーベルニュで開催された、アドベンチャー・レースに出場するために渡仏した。レースの後、パリでレース・メンバーに別れを告げてプロバンス地方を旅した。そしてピーター・メイルの著書に刺激を受け、プロバンスではグルメ三昧の旅をしようと決めていたのだった。
「じゃあ……そっちはニースでなにをしてたの?」
むっ、としているのがバレないように、なるべく笑顔で質問する。
「そう言われると……別になにをしていた、という訳じゃないけど、ビーチをのんびりと散策したり、本を読んだり……それにどうしても行きたい美術館があったんです。シャガールとマチスの」
ふーん……シャガールね……グルメとアート。悔しいけど、どうも分が悪い。
話題を変えることにした。
「今夜、パリに戻って、なにか予定はあるの?」
彼女がまた笑う。
「え?今度はなにが可笑しいの?」と苦笑い。
「だって……ストライキのせいで、突如、予定を変更して、こうしてパリに向かっているのに、予定なんて……」
ごもっとも!まったくその通り!異国の地で素敵な日本女性に会って、舞い上がっているマヌケな自分に呆れる。
が、駄目元で誘ってみた。
「じゃあ、今夜、よければ一緒に夕食でもどうかな?美味しいベトナム料理の店を知っているんだ」
一瞬、彼女はその眠たげな目を見開いた。が、すぐにいつもの表情に戻り、優しく頷いて言った。
「グルメな方のお勧めのベトナム料理だなんて、とても愉しみ!」
そのベトナム料理店は、サン・ミッシェル・ノートルダムの近くにあり、店の周辺にはアウトドア・ショップが建ち並び(だからこの店の存在を知っていたのだが)、特に「オー・ヴー・キャンプ」という、マウンテニアリング(登山・山歩き)の本格的な道具を扱う店もある。
定番の生春巻き、それよりも小ぶりな揚げ春巻き、ニョクマムの塩味が効いた鶏の唐揚げ、日本のお好み焼きのようなバインセオなどを食べながら、ロワール地方のサンセールのソーヴィニヨン・ブランを呑んだ。
「明日、オルセー美術館に行こうと思っているんだけど、もしよければ、一緒に行きませんか?」と、彼女が食後にココナッツ・アイスクリームを食べ、ナプキンで口の周りを丹念に拭った後、そのように訊ねる。
確かオルセー美術館にはゴッホの「アルルの部屋」が展示してあるはずだ。20代のころ、その絵のポスターを部屋に飾ってあった時期があった。
「アルルの部屋」は、ゴッホがプロバンス滞在中に描いた絵だと聞いている。
ボクは食後のアルマニャックを呑みながら快く承諾した。
「ところで……明日の朝、一緒に走らないか?」
今日の午後、パリに到着してホテルにチェックインしたら、そこはちょうどセーヌ川の畔に位置していた。今回のフランス旅行の最後の朝に、彼女と二人でセーヌの河原を走ることができれば、とてもいい思い出になるだろう。
「あまり早く走れないから、付いていけるかどうか分からないけど、5キロくらいなら、なんとか」
「よーし! 決まった! じゃあ、これからブラディ・マリーを飲みに行こう! 確かここから歩いて行ける距離に、ブラディ・マリーの発祥の地であるバーがあるはずだ。
彼女はちょっと呆れ気味に言った。
「そんなに呑んで、明日の朝、早くから走るっていうのに、まだ呑むの?」
「だって明後日の早朝には帰国するし、今夜しかチャンスがないだろ。それにまだ時間も……」時計を見ると、すでに10時を過ぎていた。
パリでは夕食の時間が遅いせいか、街全体が夜遅くまで起きている感じがする。現にこのレストランだって9時過ぎになって混み始めてきた。
ベトナム・レストランを出て、ボクたちは「ハリーズ・バー」を目指して歩き始める。
恋人たちが歩いてサマになる街は、ヨーロッパを探せばいくらでもあると思うが、このパリは、その中でも3本の指に入るに違いない。
いや夜だけではなく、パリは「24時間、恋人たちの街」である。ショーウィンドウ、街路樹、看板、建築物……そのすべてが恋人たちのためにあるような気がする。
彼女と出会ったのが、パリ行きの飛行機じゃなければ、ボクたちは今ごろ、こうして二人で歩いていただろうか? それとも彼女の存在が、夜のパリの街の存在を、特別に感じさせるのか?
昔観た、『愛と哀しみのボレロ』という映画を思い出す。
アメリカ、ロシア、ドイツ、フランスのそれぞれのある家族が、第2次世界大戦で傷付き、ラストシーンではパリのエッフェル塔で開催された、チャリティ・コンサートに集うという内容の物語だ。
その映画の中で、ドイツ占領下のパリで、パリジェンヌが、パリに侵攻したドイツ軍の兵士と恋に落ちるシーンも登場するが、パリの街は敵兵とのロマンチックな関係でさえ、絵になるのである。
明後日の帰国後、すぐに120名の専門学生を対象に、アウトドア実習をするという予定が入っていた。いつものように三度の食事もままならない状態で、山を走り回り、湖でチンしたカヌーのレスキューに駆け回らなければならない。
今夜と明日は、このパリの甘美な時間を、思う存分満喫して帰ろう。
気が付くと、彼女の手を握りしめて、ボクたちは夜のパリの街を歩いていた。
木村東吉(きむら・とうきち)
1958年11月16日生まれ。大阪府出身。ファッションモデル、エッセイスト。10代の頃からモデル活動をはじめ、上京後は『ポパイ』『メンズクラブ』の表紙を飾るなど活躍。30代よりアウトドアに活動の場を広げ、世界各地でアドベンチャーレースに参加。その経験を活かし、各関連企業のアドバイザーを務め、関連書籍も多数刊行。オートキャンプブームの火付け役となる。
「走る・歩く・旅する」ことをライフワークとしている。現在は河口湖を拠点に執筆・取材、キャンプ・トレッキング・カヤックの指導、講演を行っているほか、「5LAKES&MT」ブランドを展開しアウトドア関連の商品開発を手掛けるなど、幅広く活動している。
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