『ロング・ロング・トレイル』全文公開(21) 第五章 走って歩いて、旅をする (2/7)
2018年10月に出版した、木村東吉さんの著書『ロング・ロング・トレイル』を無料で全文公開します。
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コッパー・キャニオンを駆け抜けろ
2010年の秋、一冊の本に出会った。当時、世界中でベストセラーとなっていた『Born to Run』という本である。本の著者はクリストファー・マクドゥーガル。
アメリカでもっとも有名なスポーツ雑誌『スポーツ・イラストレイテッド』のライターであり、自らもランナーであるクリストファー・マクドゥーガルは、ある時、足の故障を訴える。そしてその原因を把握するために病院に行くのだが、どの医者も口を揃えて言う。
「少しの間、ランニングを控えて休んだ方がいい」
それは分かりきっていることだ。ランニングで足を痛めたのなら、ランニングを休む以外に治療法はない。だが著者は思う。
「なぜ自分だけが故障するのだ? 世の中のランナーの中には、自分よりもっと激しく走る人だっている。なのになぜ自分が……」
そういう疑問を持っている時に、さらにその疑問を大きくする存在を知る。
それはメキシコのコッパー・キャニオンという秘境に暮らす「タラウマラ」というインディオの存在だ。彼らは自らを「ララムリ(走る民)」と呼び、一日に100キロ以上の距離を、なんと「ワラーチ」と呼ばれる古タイヤをリサイクルしたサンダルで走るといわれているのだ。そこで著者は益々、疑問に思う。
「なぜ自分は100数十ドルもする高価なシューズを履いて足を痛め、なぜタラウマラの人々は粗末な「ワラーチ」を履いて走ってもなんともないのだ?」
そこで本来の職業であるジャーナリストたる力量を発揮して、いろいろな人に話を聞いて調べて行くのだが、話を聞いているうちに「そもそも何故、人類は走るようになったのか?」という根源的な疑問へと発展していき、さまざまな角度から「走る」ことの意味を紐解いていく。それと同時にタラウマラの人々の暮らしに興味を抱き、そこに移り住んだ一人の男、米国を代表するウルトラマラソン・レーサーとタラウマラの人々とのレースを仕組んだ男、カバーヨ・ブランコの活動を追い求め、自らもコッパー・キャニオンに出向いてレースに出場する。
さらには米国の数々のウルトラマラソンの歴史を紐解き、現代のハイテク・ランニングシューズへ警鐘を鳴らす、という内容である。
その本を読み、大いに刺激を受けた。
長女が生まれた記念に初めてフルマラソンを走り、その本に出会うまでに
20年以上、フルマラソンに出場したが、この本は、それまでの己のランニングに於ける知識をすべて覆す内容だった。
その結果、自分自身でも自作でワラーチを作り、その自作のワラーチで、2011年には因縁の河口湖でフルマラソンを完走し(この河口湖マラソンが、ボクにとっての初マラソンだ)、2012年にはチャリティランでワラーチを履き、河口湖から神戸まで、450キロの距離を18日間で完走した。
そしていよいよ2014年の春に、『Born to Run』の軌跡を辿って、コッパー・キャニオンを訪れ、レースに出場したのであった。
旅の道連れは3人。まずはこの「コッパー・キャニオン」のレースに日本人として初めて出場して、いきなり優勝してしまった石川弘樹。トレイル・ランニングの世界では伝説的な存在だが、学生時代にボクの仕事のアシスタントを務めていた時期があり、今でもその付き合いは続いている。それと、この15年ほど、ほとんどのレースを一緒に走っている現アシスタントのカホ。それにワラーチをライフワークとしているユカの3人である。
この3人に加え、エルパソから陸路でメキシコ国境を越えるバスに乗るために集まったオーストラリアから来たルッカとリディアのカップル、そしてその友人のテレンス。これが今回の旅の仲間である。
コッパー・キャニオンの谷にひっそりと佇む村「ウリケ」に到着すると、村の中心にある広場ではレースの開催を告げる絵が壁に描かれ、道端の脇の低い壁にはワラーチの足跡が描かれている。この一週間、この村はまったく別の村になる。レストランでの食事、マーケットでの買い物、すべての価格が変わり、人々の暮らしも変わる。
アウトドア・ライフでの基本の一つに「自分の足跡以外はそこになにも残すな」という言葉があるが、我々は旅人として、そこに暮らす人々に、ローインパクトな印象を残すように心がけなくてはならない。レストランに入って、食事を残すような行為を控え、無駄な物を購入することを控えなければならないのだ。
さてレース本番当日。
これまで29年間のレース出場経験の中で、足が攣って走れなくなったことが三度ある。
まずはロードレースに出場し始めた25歳のころ、多摩川を走る20キロのレースの途中、折り返しを過ぎて11キロ地点で足が攣った。1月の寒い日のレースで、残りの約9キロをずっと歩いた。歩くのはつらくなかったが、寒さがホントに堪えた。
二度目は静岡県の掛川で開催されたフルマラソンで、30キロまではとても好調で、このまま行けば新記録が出るかもしれないと調子に乗って飛ばしていたら、32キロ地点で足が攣った。残りの10キロをなんとか早足で歩いたが、この時は気温も暖かく、ただ単に自分の不甲斐なさを呪った。
三度目は初めて「チャレンジ富士五湖」の72キロの部に挑戦した時だ。この時も出だしは好調だった。本栖湖の約40キロの折り返し地点で4時間半。いつものフルマラソンの記録を鑑みれば、極めて好調なタイムだった。が、それがよくないことが、後から分かった。
もう少しスローペースで走ればよかったのだ。60キロ、ちょうど河口湖の自宅前を通過した辺りで足が攣った。この時も残りの12キロを早足で歩いたが、やはり悔しさが残った。
レース以外でも、長い山の縦走などに行くと、時々、足が攣る。それは歩いている時であったり、歩き終え、夕食の準備をしている時もある。どうやら足が攣ることが癖になっているみたいだ。
理由は二つ考えられる。
一つ目は電解質のバランスだ。ボクは汗かきである。呆れるほど汗をかく。当然、水分も大量に摂取する。その結果、電解質のバランスが崩れる。
二つ目はストレッチ。若い時から苦手だ。朝起きていきなり走り始める。周囲が見ていて苦笑するほど、いきなり走り始める。そして走った後もストレッチをしない。若い時なら誤魔化せたかもしれないが、歳も歳である。もう誤魔化せないのは分かっている。
もちろん前日の食事なども影響するだろう。今回みたいに僻地に来て、普段、レース前に口にするようなモノが、一つも口にできなかったということも影響しているかもしれない。
なにしろ、今回は早かった。ノースループのチェックポイント2を過ぎた辺り、距離にして25キロほどの地点で足が攣った。日本を出る時に攣りに効く漢方薬を処方してもらい、それを飲んだら、攣りはどこかに消えた。サウスループの50キロの地点で少し違和感はあったが、そのまま走り続けた。サウスループからスタート地点に戻る箇所では、今回、ペーサーを務めてくれた弘樹から「もう少しスピードを落として!」と注意されるくらいに、調子よく走ることができた。
残り20キロ。最初のチェックポイントまで行って帰ってきたらレースは終わりだ。
ところが……ウリケの村外れ、約63キロの地点で再び足が攣る。ハムストリングからフクラハギに掛けて、もう一歩も歩けないほど。弘樹が念入りにマッサージをしてくれる。
それから「トウキチさんはあまり好きじゃないと思うけど」と言って、持っていたエナジージェルを飲ませてくれた。
ボクは極力、サプリメントを摂取しないことにしている。それは普段の生活でもレース中でも同様だ。その訳はいつかまた違う機会に話したいと思う。なにしろ、それまでの10時間は水とエイド・ステーションのオレンジやグレープフルーツ、それにスポーツドリンクだけで済ませてきた。だが弘樹が見かねてエナジージェルを差し出した。
マッサージが効いたのかジェルが効いたのか、攣りは少しは治まり、なんとか小走りに走れるようになった。それに心配していた膝の痛みがほとんどないことに驚いた。
その時、それまで後方を走っていたユカが我々に追い付いた。ほんの少し、彼女は我々と共に居たが、弘樹に「ユカさん、さあ行って、行って!」と檄を飛ばされ、先を急いだ。
ユカが先に行ってしばらくすると、今度は左足のワラーチの鼻緒が切れた。実はこれで今日は2回目だ。朝、ノースループの20キロにも満たない地点で右足の鼻緒が切れたのだ。
カホに手伝ってもらって、朝と同様に即席で補修する。予備の細挽き紐は持っているが、なんとか今の真田紐で補修できるみたいだ。
ワラーチを作り始めたころ、3ミリの細挽き紐を使っていた。その頃には100キロから150キロ走ると、よく鼻緒が切れた。それから細挽き紐から真田紐に替え、さらにシュードクターで補強するようになって、走っている時に鼻緒が切れることなんてなかった。このコッパーキャニオンの路面が厳しいのか。それとも他の理由が考えられるのか。が、レース後半になってくると、地元のララムリの人々の鼻緒も切れ、そこかしこでワラーチを補修しているララムリの選手を見かけた。これはもうどうすることもできないの
だ。
ワラーチの補修が終わって再び走り始める。
「つらいって言ったって、レースはたった一日で終わるじゃないですか!レイドゴロワーズで12日間も歩き続けたことを考えれば、比にならないくらいにラクじゃないですか!」と弘樹が慰めの言葉を掛けてくる。さらに「泣いても笑っても、あと15キロ。2時間もしないうちにレースは終わります。このキャニオンの自然をたっぷりと味わって走って下さい!」
その言葉に促されて見上げると、渓谷の底には夕闇が近づいて来ているが、渓谷の頂上あたりには西日の残照が当たり、赤銅色にキラキラと岩肌を輝かせている。空の青さが濃くなり、その赤銅色とのコントラストが美しい。まさにコッパー・キャニオンである。
弘樹の言う通りだ。こんな美しい夕暮れの渓谷の中を走る機会なんて、そんなにあるものではない。彼女も一人ぼっちで頑張っている。こっちも負けてはいられない。
山から下りてきて、残り5キロの地点で、それまでダラダラと歩いていた二人のララムリの選手が、追い越しざまに再び走り始め、我々に負けじと付いて来た。
弘樹がその様子を見て、「嬉しいじゃないですか! 彼らを引っ張ってあげましょう!」
と檄を飛ばす。
その言葉に益々チカラを得て、快調に走り続ける。時計を見るとキロ5分ほどのスピードで走っている。隣で走っているカホも、ララムリの選手も、まったくスピードを緩める気配もない。
この時、ココロのどこかで引っ掛かるモノがあった。しかしそれを考えるほどの余裕はない。なにしろ、ゴールはもうすぐに見えているのだ。
「バモス! バモス! アニモ! アニモ!」
このレース中に何度も耳にした言葉を、沿道に居る人々が叫ぶ。
「バモス!」は「行け!」という意味で、「アニモ」は「頑張れ!」という意味である。
最後はララムリの2人とカホの4人でゴールした。
エルパソから一緒に旅を続けてきたテレンス、ルッカ、リディアの3人もゴールで待ち構えていた。
それぞれにハグを交わした。
振り返ってカホともハグを交わし、その横に立っていた弘樹ともハグを交わした。その瞬間になって、ココロに引っ掛っていたことに気付いた。
この12時間半にも及ぶ長いレースの間、ボクはカホと弘樹の3人でゴールする瞬間を何度も何度も頭の中で思い描いていたのだ。ところがゴール寸前で追い付いてきたララムリの選手たちとのランによって、ずっと思い描いていたイメージは別のイメージに置き換えられてしまったのだ。
その原因のすべての責任は、自分のココロの余裕のなさである。もっとココロに余裕があれば、弘樹に一言「最後は一緒にゴールしよう!」と声を掛けられたはずである。
また一つ旅の果てに、己の魂の一部を置いて行くことになった。
これにもいつかは決着を付けなければならないだろう。
冒頭でも言ったが、2010年にワラーチに出会い、その後、自家製のワラーチ作りに心血を注ぎ、2011年にはその自家製ワラーチでフルマラソンを走った。そして2012年にはワラーチで18日間掛けて河口湖から神戸まで走り、今回はワラーチの故郷で80キロの距離を走った。
これでひとつの区切りはできたのだと思う。
見上げると、ペーパームーンが渓谷の夜空に輝いていた。
木村東吉(きむら・とうきち)
1958年11月16日生まれ。大阪府出身。ファッションモデル、エッセイスト。10代の頃からモデル活動をはじめ、上京後は『ポパイ』『メンズクラブ』の表紙を飾るなど活躍。30代よりアウトドアに活動の場を広げ、世界各地でアドベンチャーレースに参加。その経験を活かし、各関連企業のアドバイザーを務め、関連書籍も多数刊行。オートキャンプブームの火付け役となる。
「走る・歩く・旅する」ことをライフワークとしている。現在は河口湖を拠点に執筆・取材、キャンプ・トレッキング・カヤックの指導、講演を行っているほか、「5LAKES&MT」ブランドを展開しアウトドア関連の商品開発を手掛けるなど、幅広く活動している。
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