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ざっくりモンゴル! 草原の秘密|鈴木裕子 ボートック【5】
「あなたモンゴルでも行く?」この一言で、給食のおばちゃんだった鈴木裕子は、在モンゴル日本国大使館の公邸料理人になった――。モンゴルは驚きの連続。価値観がボロボロと崩れ落ち、そして再構築されていくのがなぜか心地良い。
初の著書『まんぷくモンゴル! 公邸料理人、大草原で肉を食う』でモンゴルの知られざる食と暮らしを紹介し、生きることと食べることの意味について考えさせてくれた著者が、今度は食に留まらない様々な場面で、モンゴルでの気づき、日本との違いをユーモアたっぷりに綴ります。
山羊入刀
「できたよ〜」待ちに待った時間の到来だ。Aさんと弟さんがヨイショと箱から取り出したのは、ズッシリ熱々の山羊のボートック。お腹部分に刃が入れられると、皮の下にしっかりとついた真っ白な脂が目に眩しい。あたりに広がる美味しい匂い、切り開かれた山羊から現れるお肉と黒い石の山、輝く肉汁に五感の全てが刺激され食欲がムクムクと湧き上がる。
Aさんがアッチッチと言いながら手際良く肉と石を選り分けると、カップに入った肉汁が配られる。山羊から取り出されたスープは澄んだ茶色。水は一滴も加えていないので、まさに山羊100%。浮いた脂を避けるように口を尖らせてアツアツを啜る。ちょっとしょっぱいが、肉の持つ生命力が体へと流れ込む。この肉汁、意外と量があるぞと思ったら、なんと一頭の山羊から4、5Lも採れるのだという。
目の前では丸ごとの山羊から見事な包丁捌きでお肉が切り出されていく。次々とみんなの手が伸びる。蒸す前は叩くとコツコツと音がするほど硬かった皮も、むちっとしていてとても美味しい。バラ肉を食べ、背肉を食べ、皮に齧り付き。胡瓜を口に放り込み、ウォッカを舐めてはまた食べる。お肉にひたすらかぶり付く原始的でしあわせな時間。
まんぷくは思いのほか早くやってきた。山羊は軽くて重い不思議な食べものだ。美味しくていくらでも食べられそうなのに、その脂の量あるいは質ゆえか、気がつくとお腹がいっぱいになっている。どうして胃袋には限度なんてものがあるんだろう。もっともっと食べたいのに。
一頭は到底食べきれない。残ったお肉はみんなで分けて持ち帰らせてもらうことになった。わたしはすかさず「肉汁をください!」と手を挙げた。
お肉と肉汁は冷凍しておいて、ある肌寒い日に3種類のきのこと合わせてラーメンを作った。山羊の肉の旨みと、味わい深い肉汁のスモーキーな香りに、あのボートックの感動が蘇る。
食べたら消えるものに時間やお金をかけるのは勿体ないと言う人もいるが、「いやいや違うって」と声を大にして言いたい。思い出すたびに幸せをくれる、それがご馳走の力だよ。忘れられない食べものの思い出に彩られた人生は、とっても幸せなはず! 思い出せばこころも、頬も緩んじゃうんだから。
美味しいスープも飲もうと思ったが、猫舌なのでちょっと間を置いた。ふと見ると、冷めたスープの表面には脂の膜が張っている。しかも取り除こうとしたら粉々に砕けてしまうではないか。仕方なく脂の粒々が混ざったスープを口に運んでみると、サクサクというか、ザラザラというか……何とも言えない食感。口の温度で溶けない脂は意外なほど不快だった。
「山羊は夏の食べもの。寒いときはダメ」そんな話を聞いていた。その言いつけ通り、寒い時には食べたことがなかったから、わたしは美味しい温度の山羊しか知らなかった。
山羊は好きだけど食べるとお腹がおかしくなると言う人がいるが、それも頷ける。山羊の脂はすぐに固まる。やっぱり熱々を食べなくちゃ。ボートックやホルホグなど脂が強い食べものに合わせるなら、冷たいビールなんかじゃなくて、アルコール度が高いウォッカなどの酒の方が体に負担がかからないとモンゴル人は口を揃え、つい飲み過ぎる。
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鈴木裕子
1968年東京都生まれ。保育園の調理師から在モンゴル日本国大使館公邸料理人に転身。離任後は大好きなモンゴルに健康としあわせを贈りたいと『Japanese chef YUKO’s vegetable and cookbook for MONGOLIANS』上下2巻をモンゴルで出版。2024年にモンゴルで会社を設立、日本とモンゴルを往復する日々。国家資格の専門調理師全六部門を取得した食いしん坊。
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