『ロング・ロング・トレイル』全文公開(6) 第二章 ランとの出会い (1/3)
2018年10月に出版した、木村東吉さんの著書『ロング・ロング・トレイル』を無料で全文公開します。
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第二章 ランとの出会い
トライアスロンで出会った、理想の生活 ~ボーダー・トゥ・ボーダー~
長女が産まれた時に、記念にフルマラソンを走った。
出産の苦しみは相当につらいらしく、我が妻に言わせると、その苦痛を男が味わえば、痛すぎて死んでしまうそうだ。本当に死ぬかどうかは試した例が世界でもないと思われるが、話に聞く限りでは、死ぬほど痛いのは理解できる。
妻にだけつらい思いをさせて、自分だけがラクして父親になれば、後々、そのことで妻からなんらかの愚痴を言われそうだ。ということでフルマラソンを走ることにした。
ある人に言わせると、フルマラソンの42.195キロは、その数字から「死(4)に(2)に行(1)く(9)が如(5) し」といわれているそうだ。かなり無理のある語呂合わせだが、分娩の際に死ぬほどの痛みを伴うことを鑑みれば、「死にに行くが如く」走ることは、出産に匹敵する大仕事である。
が、実際に初めてフルマラソンを走って、「死にに行くが如し」はあまりにも大袈裟だと思った。しかしそれはタイムをまったく考慮しないことを前提とした話である。
ちなみに3時間を切る人は、敬意を込めて「サブスリー・ランナー」と呼ばれ、市民マラソン・ランナーの中ではヒーロー的な存在となる。自分には3時間を切る才能はないことが最初から分かっていたので、タイムではなく、距離にチャレンジすることにした。そこでフルマラソンより長い距離を走るトライアスロンの存在を知り、その出場に向けて練習を始めた。
その練習を始めたころ、知り合いから「アメリカで面白いトライアスロンがあるから、一緒に出ないか?」と誘われた。
通常のトライアスロンは最初にスイム、次に自転車、そしてフルマラソンの3種の競技をこなすが、その知人の言うところの「面白いトライアスロン」は、自転車、マラソン、カヌーの3種の競技をこなす。そしてさらに「面白い」ことに、ミネソタ州を斜めに縦断するのだ。その距離800キロ。初日に自転車で320キロ、2日目に同じく自転車で320キロ。3日目はマラソンで80キロ。そして最終日はカヌーを80キロ漕いでゴールである。実際には3日目までは交代で走るので、その距離は半分になるが、それでもかなり壮大なレースである。
ミネソタ州の南にはアイオワ州があり、北側はカナダである。ミネソタ州とアイオワ州の州境からカナダの国境まで走るので「ミネソタ・ボーダー・トゥ・ボーダー・トライアスロン」という名前が付いている。
「いや、確かに面白いとは思うけど、カヌーなんて漕いだことないよオレは」と、その知人の誘いを断ろうとすると、「カヌーなんて、なんとかなるでしょ!」とその知人は食い下がる。結局は、その知人の口癖「なんとかなるでしょ」を、渡米&レース中に何度も耳にする羽目になるのだが、我々はその「ミネソタ・ボーダー・トゥ・ボーダー・トライアスロン」という、ネーミングも距離も長いレースに向けて練習を開始した。
ミネソタは「テン・サウザン・レイク・ステイト」という渾名が付いている。実際に1万もの湖があるかどうか知らないが、州北部には確かに湖が多い。そして「ツイン・ステイト」という渾名も持っている。これはミネソタの州都がミシシッピーリバーを挟んで、ミネアポリスとセントポールの双方の都市からなっているからだ。
東京からシアトルでトランジットの後、我々はミネアポリスの街に到着。まずはカヌーの購入からその旅は始まった。走るのには靴が必要だ。もちろんこれは日本から履きなれた靴を持参した。さらに自転車で320キロもの距離を走るのだから、これも日頃、練習をしている自転車を持参した。で、カヌーである。カヌーなんて日本から運べば、おそらく現地で購入するコスト以上が掛かってしまう。これは現地調達することで、その知人と合意に達していた。
ミネアポリスから南に少し行くと「ベルプレイン」という街がある。その「ベルプレイン」のカヌー・ショップに行き、どのカヌーを購入すべきか悩んだ。
レース出場以前に、そのレースで使用するカヌーをどれにするかで悩むところからして、「なんとかなるでしょ!」感、満載である。
あれこれ悩んでいると、カヌー・ショップの女主人が、「じゃあ一度試してみれば」と勧める。
「試す」って言っても……と怪訝な表情を浮かべていると「こっちについて来て」と彼女は手招きをする。
彼女の後をついて行って、その光景に驚いた。
ショップの裏庭は綺麗に芝生が敷き詰められており、その美しい緑の庭は、そのままミシシッピー・リバーの支流であるミネソタ川に繫がっている。そしてその川では、日本で皆が自転車に乗るような雰囲気で、カヌーを漕いでいるのだ。
そこで暮らす人々の日常の中に、カヌーが完全に溶け込んでいる。
その光景にショックを受けた。カヌーのパドルで頭を殴られたような衝撃だった。
レース出場が決まってから、日本でも何度か(5回ほど)カヌーの練習をした。その練習をするために、クルマを何時間も走らせた。それでもその練習場所は、決して美しい場所ではなかった。それに比べてここの人たちは、家の裏庭から、こんなにも美しい風景の中をパドリングしている。
当時ボクはたまプラーザに住んでいた。渋谷に出るのにも、横浜に行くのにも、渋滞にハマるか満員電車に揺られた。ボクが、渋滞の国道246でイライラしている時に、ここの人たちはこんなにも優雅にカヌーを漕いでいる。
日頃、満員電車で自分の手と足がどこにあるのか分からない混雑の中で汗まみれになっている時に、彼らは湖上で笑顔を浮かべて挨拶を交わしている。
人生はあまりにも不公平だった。不公平だったが、その時、衝撃の中でなにかがパチリと音を立てた。その音は最後のパズルが収まる音だった。
その6年前、ボクは初めての渡米でサンタフェに行った。そのサンタフェの街の美しさに魅せられ、もし将来、自分が家を建てるのなら、サンタフェ・スタイルの家が理想だと思っていた。が、その家をどこに建てるのか?それはまったく想像が付かなかった。
だがミネソタの川の畔で、最後のパズルが埋まった。
毎朝、カヌーができるような風景の中で、サンタフェ・スタイルの家を建てる。
そしてその夢は5年後に実現することになるのだが、その時には目の前に別の大きな課題があった。
マトモにカヌーさえ漕げないのに、カナダの国境まで80キロもの距離を漕がなければならないのだ。しかもそれまでに自転車とランで620キロも走らなければいけない。
ホントにそのレースの完走は可能なのか?
レース前日に前夜祭に行って、さらなる驚きが待っていた。
レースに誘った知人が、宿の手配をしていなかったのだ。
「いやオレはてっきりレース主催者が宿を用意してくれていると思った」と、その知人は、自分にはなんの落ち度もないといった風情で言い訳をする。
「ま、なんとかなるでしょ!」と、その知人。
国内の通常のマラソンでも、レース前日はリラックスできる環境の中、熟睡すべきだと常日頃から心がけているが、4日間もの厳しいレースを控え、我々は善意で宿泊場所を提供してくれた地元の人の家のベッドの脇で、ごろ寝をする羽目になったのである。
そんな状況で迎えたレースだったが、順位やタイムに関係なく、そのレースは素晴らしい経験をボクに与えてくれた。
永遠に続くかと思われる広大なるトウモロコシ畑の中の一本の道を、信号機に邪魔されることなく自転車で走り続ける。ミネソタ南部の地形はほぼフラットで、自分がどこまでも無限に走っていけるような気になる。
初日、2日目と我々はほとんどビリの順位で、自転車のステージを終えた。
3日目になると、アップダウンの激しい道が続くが、マラソンは我々にとっては得意種目。全体の7位まで順位を上げた。
そして最終日のカヌー。予想通り、最後尾の順位だったが、それでも無事にゴールであるカナダ国境のクレイン・レイクの畔にたどり着けた。
4日間、合計38時間42分。参加出場65チーム中、総合で48位という順位だったが、順位なんかどうでもよかった。
広大なミネソタ州の大自然の中を、南から北まで走りきり、その間に多くの友人もできた。これまでに見たこともないような風景の中を走り回り、他のチームの人々から応援を受け、人と競うことだけがレースではないと実感した。出場選手全員と、旅を続けているようなレースだった。
レース後の表彰式で泥酔して、気が付いたら、カヌーの時のドロドロの靴を履いたまま、ベッドの上で目覚めた。もちろん布団など掛けていない。が、胸にはしっかりと完走証のメダルが掛かっていた。
それまでの人生で味わったことのない達成感に包まれ、ボクは4日間の汗と泥を落とすべくシャワーを浴びた。
木村東吉(きむら・とうきち)
1958年11月16日生まれ。大阪府出身。ファッションモデル、エッセイスト。10代の頃からモデル活動をはじめ、上京後は『ポパイ』『メンズクラブ』の表紙を飾るなど活躍。30代よりアウトドアに活動の場を広げ、世界各地でアドベンチャーレースに参加。その経験を活かし、各関連企業のアドバイザーを務め、関連書籍も多数刊行。オートキャンプブームの火付け役となる。
「走る・歩く・旅する」ことをライフワークとしている。現在は河口湖を拠点に執筆・取材、キャンプ・トレッキング・カヤックの指導、講演を行っているほか、「5LAKES&MT」ブランドを展開しアウトドア関連の商品開発を手掛けるなど、幅広く活動している。
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