
【新刊試し読み】 『机の上の動物園』|椎名誠
椎名誠さんの新刊『机の上の動物園』が8月25日(金)に発売されたことを記念して、本文の一部を公開します。
本書について
世界中を旅してきた著者が旅先から持ち帰ったモノや道具を一堂に集めた一冊。フランスのフライパン、パタゴニアのカンナ、アムチトカ島のナイフ、南米の飾り馬とホルスタイン、世界各地の道で拾った石ころ、アメリカ西海岸のなめくじ人形など、何の役にも立たないが、なぜか気になって手放せない愛しきガラクタたちを、旅のエピソードとともに紹介。椎名誠ならではのユニークな旅の流儀が見えてくる。作家生活40年余にして初めての「モノ雑文集」。
試し読み
南回りのパンかじり旅
忘れえない、ーーじゃなかった。忘れたほうがいいような外国旅は、その頃勤めていた会社の取材旅という、まったく無粋な「出張」というやつだった。
一人でヨーロッパぐるり旅。なんぞと書けばなにやらデラシネっぽいかもしれないけれど、実際は空腹ヨレヨレ旅なのだった。言葉が通じないとパンも簡単には手に入らない。
あっ、つまらないシャレじゃないけれど当時はパンアメリカン(パンナム)が世界一周便という荒っぽいのを就航させていて、世界各国を本当にずっとグルグル回っていた。ヒコーキによる世界巡回バスみたいなものと思えばいい。
南回りと北回りがあって日本からヨーロッパへ行くには断然北回りの方が楽で早いのだけれど、零細企業の出張旅というのはそういうコトを自分ではどうすることもできない。
怖い経理のおばちゃんがいて、キツキツの予算案を作ってくれるのだ。経理のおばちゃん自身は旅に出るわけじゃない。自分が体験しないから、いかにその出張経費を節約するか、というのがその人の「命がけのテーマ」になっていたのだ。でも今考えると将来それが役に立った。おかげで旅人(ぼくです)には連日の苦しい自己管理の日々が待っていた。
一カ月の一人旅なので旅先で仕事相手と打ちあわせをして、紹介されたところを取材し、必要なら写真を撮ったりめしを食ったりサケを飲んだりということをやっていてよかった。しかし出張なのだ。仕事だから沢山の資料や荷物をかかえて成田空港へむかった。当然、見送りなどはまったくない。
成田空港の売店でSF小説と宮沢賢治の文庫と『これ一冊で完璧! 世界八カ国語同時会話ブック』というのを買った。
一冊でどのようにすれば八カ国の会話が完璧になるかというと、たとえば「おはようございます」というコトバを英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、中国語、スペイン語、ロシア語で横一列に書いてある。
ほかにも「暑いです」「寒いです」「眠いです」なんていうコトバがズラズラ並んでいる。世界を三周しようが五周しようがこれでもう安心、とその本は言っているのだった。
初めての海外旅行。しかもひとり旅。通訳も案内人もまったくなし。
いま考えると無学のアンちゃん一人旅だ。よくちゃんと日本に帰ってきたものだ、と思う。いきなり地球半周の旅に出てきた世界のイナカモン、と見破られ、パスポートなどをスラレたりしたらもうそれで終わりだ。旅行小切手なども「なくしたらキケンだから」というよくわからない理由で経理のおばちゃんの権限で与えてもらえなかった。旅行小切手というのは通常では現金を無くしたらいけないから、という目的で開発されたモノだったように思うのだが、当時ぼくの勤めていた会社は誰もそれに気がつかなかったのですよ。ぼくもですがね。
のっけから余談だが、そういう原始的な扱いをうけているヒト(わたくしのことですが)が十数年後、モノカキとなっていろんな本を書いていくようになるのだが、いちばん最初に書いた本が『クレジットとキャッシュレス社会』(教育社)というものだったのである。
思えばそのときのこういう無鉄砲旅で「クレジットカードなんてのを持っていればなあ」とつくづく思ったから書いたのでしょうなあ。日本にはまだほとんど流通していなかった時代である。
オンボロの格好をして、一カ月暮らしていけるぐらいのドル札を持っている。
赤貧暮らしといえどもレート換算して、その頃の「ドル札」で持ち歩いているのはかなりの額になる。それをごそっと盗られたら、それこそ本当に翌日からホテルもパンも何もなくなり、フランスホームレスというのが現実だった。
賢い旅人がカードや旅行小切手などを使っている姿を旅先で目にすると、世界にはスマートな旅人がたくさんいるんだなあ、としみじみ学習していったのだった。
このときの衝撃のかずかずはその大きさではなく、視覚、精神的なものだった。たとえば「京にあがった一寸法師」の心情に近かったような気がする。
当時のぼくの強みは、旅先でカネのトラブルを何も想定していない、想定できない、ということだったような気がする。
そういう思考能力がまるでなかった、というわけでもあった。事実、何も不安には思っていなかった。簡単にいえばかなりの純粋バカだったのである。
当時海外旅行はまだ一般的ではなく、日本の経済力も低かった。1ドル=360円くらいだったろうか。でもそれが旅人にとっていいのかよくないのかわからない。なににしても「おら何もわかんね」というタイドで無邪気に空中にトンでいたのである。
でもねえ、こうしてバカを隠そうとしないヒトはどこか基本が強いもんだ。
目次
Ⅰ 愛と哀しみのオムレツフライパン
南回りのパンかじり旅/各駅停車的ヒコーキ/屋根裏部屋
カンナとノコギリに裏切られた/漁師ナイフと軍隊ナイフ
アマゾンの手づくりアナコンダ
Ⅱ インドの神サマやアフリカのイモリ様
踊るシバの神さま/巨大フライパン/ロシアの謎のガギガギ物体
鉄が食いつく/アザラシには内緒の卑劣な武器/毛皮の重ね着
Ⅲ 机の上の動物園
北極ギツネに助けてもらった話/ベトナムのすんごいおしゃれネコ
水牛はおとなしい働きもの/イスタンブールのカチカチワニ
南米からきた陽気な三匹?/アヒルよりも小さなクジラ
ナメラ伝説/昆虫博物館開設の夢
大草原の食うか食われるか/ギザギザ怪物と無口なネコ
Ⅳ 噛みつき小石
いろんな顔になった/頼りになりそうな小さな金属のかたまり
力強い実力者のおすがた
Ⅴ ラオスのグルグル目玉
旅でであった造形美
ごあいさつ
著者紹介
椎名 誠
1944年東京都生まれ。作家。『さらば国分寺書店のオババ』(1979年)でデビュー。小説、エッセイ、ルポなどの作家活動の他、写真家、映画監督としても活躍する。「本の雑誌」初代編集長。主な著作に『犬の系譜』(講談社)、『岳物語』(集英社)、『アド・バード』(集英社)、『中国の鳥人』(新潮社)、『黄金時代』(文藝春秋)などがある。近著は『おなかがすいたハラペコだ4月夜にはねるフライパン』(新日本出版社)、『失踪願望。コロナふらふら格闘編』(集英社)、『シルクロード ・楼蘭探検隊』(産業編集センター)など。

『机の上の動物園』
【判型】四六変形判
【ページ数】144ページ
【定価】本体価格1,760円(税込)
【ISBN】978-4-86311-374-9