見出し画像

【新刊試し読み】『辺境、風の旅人』|芦原伸

編集者、記者として世界70カ国を取材してきた、ノンフィクション、紀行作家、芦原伸さんの著書『辺境、風の旅人』が2024年8月30日(金)に発売されたことを記念して“はじめに”を公開します。


本書について

世界中を旅してきたベテラン作家による珠玉の旅エッセイ。これまでの数多くの辺境旅の中から、特に忘れ得ぬ旅を厳選。ケニア、モロッコ、ポルトガル、バスク、北極圏、シベリア、中国など、10の辺境の旅物語を硬質な筆致で書き下ろした。「辺境への旅は私の人生をも変えてくれた」と語る著者渾身の一冊。


試し読み

 2006年、アメリカで起こった衝撃的な事件を覚えていらっしゃる方も多いだろう。
 ペンシルバニア州、アーミッシュの学校で起こった銃撃事件だ。
 ある男が学校に突然乱入。銃を乱射し、女子生徒5名を銃殺、5名が重傷を負った。教室は血まみれになった。「神を許せない!」というのが犯人の理由だった。加害者はほどなく自殺した。ところが被害者側の娘らの両親は、犯人の罪を責めず即座にゆるしたのである。それどころか犯人の両親に同情し、彼らを見舞い、その痛みを分かち合うべく、花をもって彼らの心が癒されるまで慰安訪問を続けた。
 このニュースは世界中に流され、「アーミッシュの赦し」の感動、衝撃は広まった。
 本来ならば加害者を憎み、報復を願うのが人の常である。
 ところがアーミッシュは、
 ──人は過ちを犯す者、人は人を裁けない。裁くのは神の仕事。
 という信条だった。
 アーミッシュ村のエピソードは本書のモンタナ州の章でも触れた。
 アーミッシュはプロテスタントの一派だが、19世紀頃の習慣を守り、いまだに文明を排し、電化生活を拒み、移動は馬車を使っている。超文明国のアメリカにありながら、その谷間のような辺境に暮らしている。
 辺境には澄んだ空があり、穏やかな風が吹き、人々の素朴な暮らしがある。
 そこには神の教えや祖先の言い伝え、伝統的な習わしが息づき、自然と共生しようとする人々の共同体が息づいている。
 アーミッシュの村もその一つである。
 そうした辺境から学ぶことがあるのではないか──、
 というのが本書を書く動機だった。
 現代では「世界標準化」が「進化」と同じような意味で理解されている。
 文明が世界の隅々まで浸透し、グローバルスタンダードという言葉が日常化しているが、果たして文明は本当に人類を幸福にしたのだろうか? 
 消費生活になじんだ私たちは古いものを捨てることを善として、大量生産・大量消費社会を実現し高度文明社会を築いてきた。果たしてその高度文明社会が人類を進化させたか、といえば疑問は残る。
 世界はますます格差社会が広がり、森林資源の消滅は地球温暖化を加速させ、化石燃料の消費は大気汚染、酸性雨をもたらし、今や地球は瀕死の状態である。
 同時に世界は分断化が進んでいる。資本主義大国と全体主義大国とが敵対し、強国が弱国に平然と侵略した。戦争がはじまり難民、飢餓が広がる。終わることのない戦争の今日を鑑みるに、文明が人類に幸福をもたらしてくれたのか、疑わざるを得ない。
 一度、文明という色眼鏡をはずして辺境を旅してみよう。
 そこには「安全」「清潔」「便利」という現代文明の恩恵は保証されないが、荒々しい大自然や中世とさほど変わらぬ人々の暮らしのなかに新しい発見があるかもしれない。異文化との接触や未知との出会いが、現代のIT文明とはまったく違った価値観を教えてくれるだろう。
 改めて人類の歴史を眺めてみるとアフリカから出発して地球の隅々に至るまで人類は遠大な旅をしてきた。農耕と牧畜がはじまるまでの人類の暮らしは自然と共生しながらの移動生活であった。そうした旅の記憶が私たちのDNAのなかに深く刻まれているのではないか。
 辺境への旅は私の人生をも変えてくれた。
 仕事に疲れた時、物事がうまくはかどらない時、私は辺境への旅に出る。
 太古から変わらぬ自然の風景は私の心を無垢に帰し、私の魂に治癒力を与えてくれるのだ。
 本書は1990年代から2020年代までの私の約30年に及ぶ辺境の旅の中から、思い出深い国、その旅の印象記を追想したものである。
 しかしながら私はバックパッカーでもなく、専門の研究者でもない。それゆえ一つの国に長期間滞在して異国の人々と生活をともにしたり、異文化体験を究めた経験はない。私は雑誌や新聞の取材記者であり、本著は通り過ぎた旅人の垣間見た風景、聞きかじった記録に過ぎないことをお断りしておきたい。
 ぜひ読者の新しい地平線への旅立ちを期待したい。


目次

1 ケニア グッドモーニング、ケニア
2 モロッコ 砂漠の誘惑、ムアディンの響き
3 ポルトガル サウダーデ 失われたものへの哀歌
4 バスク ザビエルの見果てぬ夢
5 北極圏 イヌイットの国の風景
 一 グリーンランド──役に立たないものは置いてゆく
 二 アラスカ──極北の空を裂いたオーロラの光
 三 カナダ──文明化したイヌイットの暮らし
6 シベリア シベリアの初夏をゆく
7 中国・新疆 シルクロード、辺境の食卓
8 オーストラリア・タスマニア 人生の深い味わいを釣る
9 アメリカ大陸編 大いなる西部の片隅で
 一 ワイオミング──ロッキーに冬来たりなば…252
 二 モンタナ──モンタナの風に吹かれて…260
 三 ユタ──オレゴン街道の不思議な出来事…276
10 カナダ ホッキョクグマに会いにいった


著者紹介

芦原 伸
1946年生まれ。名古屋育ち。ノンフィクション、紀行作家。北大文学部卒。出版社勤務を経てフリーランスに。1980年、創作集団「グループ・ルパン」を主宰。編集者、記者として世界70ヵ国を取材する。「天夢人Temjin」(出版社)の編集長、代表を経て2019年退職。日本文藝家協会、日本旅行作家協会会員。 著書に「ロシア、一九九一、夏」(角川学芸出版)、「アフリカへ行きたい」(街と暮らし社)、「シルクロード鉄道見聞録」(講談社)、「鉄道おくのほそ道紀行」(講談社)、「地球鱒釣り紀行」(新潮社)、「へるん先生の汽車旅行」(集英社)(第10回開髙健ノンフィクション賞最終候補作品)。「新にっぽん奥地紀行」(天夢人)、「被災鉄道」(講談社)(第40回交通図書賞受賞)。「ラストカムイ」(白水社)、「北海道廃線紀行」(筑摩選書)、「旅は終わらない」(毎日新聞出版)、「世界食味紀行」(平凡社新書)、「草軽電気鉄道物語」(信濃毎日新聞社)など。

『辺境、風の旅人』
【判型】B6変型判
【定価】本体1,500円+税
【ISBN】978-4-86311-414-2


本書を購入する