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片道十三時間の街で/近藤聡乃

 中学生になると、電車を乗り継いで一時間半ほどの学校に通い始めた。小学校は徒歩三分であったから、はじめての電車通学、はじめての長距離移動生活である。子供の頃から乗り物酔いする質で、最初の頃は文字通り「這う這うの体」で学校にたどり着く、といった状態だったのだけど、次第にそれを克服すると移動が面白くなってきた。窓の外を眺めて、開店前のパチンコ屋に行列ができることや、駅の周りには怪しげなホテルがたくさんあることを知ったり、吊り広告の下世話さに驚いたり、帰りには気に入った本やマンガを読んだり、眠ったりして過ごす。最寄り駅で降りると次は自転車での移動である。川沿いを走って、橋を渡り、三叉路を下ると家。中高一貫の学校だったので、これが六年間続いた。

 大学はもっと遠くなり、片道三時間ほどかかるという狂気の通学生活が始まった。往復で六時間だから、もう大学がメインなのか、移動がメインなのかわからない。それでも電車に揺られ、自転車に乗り、通り過ぎる景色を眺めながら、連想ゲームのようにぼんやりと考えを巡らせるのは楽しかった。創作のヒントが浮かぶのも移動中だった。しかし、そう思えるようになったのは大分大人になってからである(当時は移動に六時間取られる生活が過酷過ぎて、「移動はいいもんだ」とか呑気なことは言っていられなかったのだろう)。

 ともかく、そう思えるようになった時、私は大人になっていた。しかも、さらに遠く、飛行機で十三時間の街、ニューヨークに移動していたのである。クイーンズのアストリアという地区で1Bedroomの部屋に住んでいた。この1Bedroomというのはリビングとベッドルームの二部屋ある物件のことである。朝起きて朝食を食べると、仕事はそのままリビング部分でしていたし、「移動はいいもんだ」とかいう割に出不精でもあったから(通学などの歴とした用事がないと外に出ない)、移動する機会はグッと減った。ただ、アメリカ人の恋人に会うという歴とした用事がある日には地下鉄に乗って出かけた。そして、「移動はいいもんだ」と気づいたのだった。

 今ではアメリカに移住してもう十三年になる。移住というと思い切った大移動を決行したような響きがあるが、そうではない。そもそもは一年の留学のつもりでやって来て、そのまま帰らなかったのだ。

 帰らなかった理由はいろいろあるけれど、気に入ってしまったから、というのが最初の理由だった。英語はよく聞き取れないし、うまく話せないから、どうしても全体的にいい加減なところが出て来る。それがもどかしくもあるけれど、いい加減でもなんとかなりそう、と思える街だった。お互いのいい加減(言語的なことだけでなく)を許したり、看過したり、無視したりして、みんなが良い加減を探ることで街が成り立っているようで、肩の力が抜けていく。「こういう暮らしもあるのだな」と思った。それを一年で手放すのが惜しかったのである。英語も一年ではあまりうまくならなかったから、ペラペラになるまではここにいていいんじゃない? いや、いるべき、と表向きの理由にした。仕事はインターネットとFedExがあればどこでもできることがわかったし、そうこうしているうちに前述の恋人と出会い、結婚することになった。彼には亡くなった前妻との間に娘がいたから、義理の娘もできた。アメリカ人の配偶者としてアメリカ永住権も取得した。ただ、彼と同居したことで「恋人に会う」という歴とした外出の理由は失ったので、移動する機会だけがめっきり減った。それはそれで出不精の私には向いてるなぁなんて思っていたところに、パンデミックが起こり、暮らしが一変したのである。

 そして現在に至るまで、移動が制限されたり、移動が憚られたりする生活が続いているけれど、「暮らしが一変した」というのはそれを指しているのではない。何度も言うように出不精であるし、夫も私も(娘はこの時大学生で一緒に住んでいなかった)主に在宅勤務だったから、自宅待機要請自体がすぐに生活に及ぼす変化はほとんどなかったのだ。いつものようにマンガのペン入れをしながら、案外なんとかなるんじゃないの? と仕事を切り上げて眠ったら、深夜に自宅上階でボヤが起こったのである。

 あっという間に火は消えたし、怪我人も出なかったけれど、暮らしを一変させるには十分だった。ピチャピチャという音で目を覚ましたら、天井から消火の水が滴っていたのである。室内が大雨のようになっていく中、夫と二人で必死に作品や貴重品を避難させたものの、翌朝明るい陽の光の中で改めて我が家を見ると、もう住める状態ではなくなっていた。自宅待機要請中に待機する自宅を失うなんてまさに寝耳に水である、とか冗談を言っている場合ではなかったのだが、冗談でも言っていないとどうかしてしまいそうな状況だった。その頃のニューヨーク州は、多い日には一日に一○○○人以上の方が亡くなっていて、そんな中引っ越さなければならなくなったのである。まさかこんな形で移動を強いられるなんてと絶望しながら、ブルックリンのサンセットパークでの仮住まいが始まったのだった。

 結局のところ、家の修復には一年かかった。二、三カ月で帰れるものと甘く見積もっていた私達にとって、一年はそれはそれは長い時間で、どのくらい長かったかというと、その間にサンセットパークがすっかり好きになってしまったほどだ。仮住まい先は二階建ての一軒家で、裏庭が付いていた。越して来た頃はまだ寒く、裏庭にも寒風が吹いていたが、暖かくなってもまだ家に帰れそうにない、ということで夫は土を耕し始めた。夏になる頃には、ニューヨーク市では経済社会活動の再開が始まっていたけれど、家の方はまだまだで、これならここで花が咲くのを見られるだろう、と私はネットで朝顔の種を購入した。遊びに来る野良猫に名前をつけ、天気の良い日に裏庭でお昼を食べていると、パンデミック中&仮住まい中とは思えないくらい長閑で、久しぶりに又「こういう暮らしもあるのだな」と思ったのである。

 このままここに住んでしまうのもありだね、とまで言うようになっていたものの、修復が済むと私達はソーホーに戻った。戻ってから一年近くたった現在では、この暮らしがずっと続いていたかのようで、サンセットパークでの暮らしが夢みたいに思えるけれど、夢でない証拠に裏庭の野良猫がうちの猫になって隣の部屋で寝ている。出会った頃はガリガリだったのが、そのうち妊娠し子猫を産んだので、二匹とも連れてソーホーに戻って来たのだ。その間にミネアポリスではジョージ・フロイドさんが殺された。大統領選挙もあった。「みんなが良い加減を探ることで街が成り立っている」と明るい方だけに目を向けていた自分を恥じたのもあの一年のことだ。

 そういえば、サンセットパークにはグリーン=ウッドという広大な墓地があって、そこに前妻のお墓があったこともあり、よく夫と二人で散歩したのだった。人との接触がためらわれる時期に、シンとした墓地を歩いていると、心もシンと落ち着いた。そして又「こういう暮らしもあるのだな」と思った訳だけど、十三年前はそれに続けて「英語がペラペラになったら、また別の言語圏で暮らしてみたい」と密かに考えていたことを思い出す。

 残念ながら未だに胸を張ってペラペラだと言えるほどではないし、日英以外の言語圏で暮らすことももうないと思う。前妻が亡くなった時に購入したというそのお墓にはあと五人入れるそうで、夫も、そして私も入る予定になっている。そんなの全然実感がわかないけれど、時間は限られているのだ。「こういう暮らしもあるのだな」といくつもの暮らしに心惹かれても、全部を選ぶことはできない。一年のつもりが移住になっていたように、無自覚に選んでいることだってあるし、選ばされてしまうこともある。だから、私達はソーホーでの暮らしを選ぶことにしたのだった。

 ちなみにそのお墓、夫曰く「土葬なら四人、火葬なら六人分入る」そうなのだが、容積が釣り合わないと思う。土葬(遺体)で四人なら火葬(骨壺)は八十人分くらいは入りそうなものだ。そんなことを考えながら夕飯の買い物に出かける。自粛生活で自炊が身について、スーパーと自宅の往復が日常になったのだ。そして、この街での「こういう暮らし」って本当はどういう暮らしなんだろうと、歩きながら考えている。

バイデン氏に当確が出た2020年11月7日、
サンセットパークの公園からマンハッタンを眺めて。

(初出:「新潮」2022年3月号)


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