〈正論〉に消された物語――小説『中野正彦の昭和九十二年』回収問題考/石戸 諭
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「小説は人間の弱さや愚かしさ、さらに言えば、弱く愚かな人間の苦悩について描くものなのだ。(中略)私たち作家が困惑しているのは、今、人々の中に強くなっている、この『正しい』ものだけを求める気持ちだ。コンプライアンスは必要だが、表現においての規制は危険である。その危険性に気付かない点が、『大衆的検閲』の正体でもある」(桐野夏生「大衆的検閲について」『世界』2023年2月号)
桐野夏生は、インドネシアで開かれた国際出版会議の基調講演の中で、正義の名の下に断罪される表現の自由への危惧を率直な言葉で語った。
懸念はやがて現実のものになった。ついに日本でも現実の事例ができたのだ。樋口毅宏のディストピア小説『中野正彦の昭和九十二年』が、書店への搬入も済ませ、いよいよ発売というタイミングになって版元のイースト・プレス社によって回収された問題である。
経緯は詳述するが、最大の問題は〝結果として〟作中の人物によるヘイトスピーチ、差別表現が問題の発端となったが、それがろくに検証されないまま、製本まで終わった時点で、回収されてしまったことにある。誰に命じられたわけでもない出版社の自主規制である。これだけでも、前代未聞と言っていいだろう。一度は印刷までしながら、小説を読み、論じる機会を出版社自らが奪ってしまったのだ。
さらに興味深いのはここまで出版の自由、表現の自由とは何かを問われる事態でありながら、メディアの関心がほぼ無いことである。大雑把なデータではあるが、私が加入しているデータベースを調べても大手新聞社でこの件を速報した社はない。ストレートニュースを流したのは共同通信だけで、これも短信だけで終わっている。スポーツ新聞でも取り上げたところはあったが、せいぜいSNS上の話題もののウェブニュースという扱いだった。唯一の例外が、朝日新聞系のウェブサイト「論座」に掲載されたレポートだが、これも外部のルポライターである清義明によるものだ。他にも差別問題に関心を持つ書き手が「読んでいない」と明言した上で、本書を公然と批判することはあったが、総じて関心を持たれているとは言い難い。
なぜこのような事態になったのか。この問いを考えていくことで、問題の核心が見えてくる。
ことの経緯を以下、樋口及び彼の代理人弁護士への取材、そしてSNS上の経過をもとにまとめておこう。問題となった『中野正彦の昭和九十二年』は、もともとウェブマガジン「水道橋博士のメルマ旬報」に2018年~2022年にかけて連載されていた小説をベースにしていると記されている。メルマ旬報自体は水道橋博士の参議院選の当選(23年になり辞職した)を機に、2022年11月に閉鎖され、そのため連載媒体では完結していない。
本書の内容はこうだ。安倍晋三政権下の2017年=昭和92年に起きたニュースが多くの場面で題材になっている。リアルタイムで起きたことをもとにして、作中の時間は動き出す。
小説の主人公、中野正彦はインターネット上で右派的言説、差別的な言動を繰り返し、安倍を「お父様」と呼ぶネトウヨである。JR中野駅近くに住み、不真面目にアルバイトをこなし、性的な関係を持つ女性もいる。小説内には日付が明示され、語り手の中野が、実際に起きたニュースとところどころ差し挟まれる虚構のニュースに対して、延々と自説を唱える日記のような文章が展開されていく。冒頭は沖縄の反戦運動に対する徹底的な揶揄や難癖のような批判で始まり、実在するリベラル、左派系の論客も登場する。彼は盛んにリベラル系のツイッターアカウントを挑発し、「論破」をすることで快楽を得ていく。彼自身は差別を悪いと思っていないため、在日韓国・朝鮮人に対する差別もストレートに記述されている。言動も行動も徐々にエスカレートしていき、彼は安倍首相の暗殺を計画する。中野がネトウヨからテロリストへと変貌を遂げる。そして、未曾有の大災害が日本を襲うなかで、日本に新しい政治体制が誕生した――というものだ。巻末にはわざわざ、「一部に実在する名前の人物が登場しますがすべて架空の人物です」という注釈が付けられている。
版元が帯につけた「安倍晋三元首相暗殺を予言した小説」だ。構想時点で、2022年7月の安倍晋三元首相の銃撃事件は起きておらず、刊行が決まったのは事件後のことだ。樋口が事件を受けて、ツイッターで小説についてツイートしたところ、イースト・プレスの編集者から刊行をしないかというオファーがあった。樋口によれば、刊行にあたって大幅な加筆だけでなく、連載時から大幅に削ることにも重きを置いた。ニュースを引用した箇所、ウェブ連載時にあった露骨すぎる差別表現は修正したとも明かした。樋口の作風についてある程度理解した上で読むウェブの読者層と、初めて作品に接することになる書籍読者の違いに配慮した上での判断だった。そして、これも丁寧なことに文脈を読まずに作中の一部の表現を切り取られることを恐れてか、帯やプレスリリースには「本書のSNSへの転載を禁じます」という一文が付け加えられた。
樋口の証言である――「執筆の動機になったのは、ここ数年ツイッター、他のSNSでも極右的な言葉や、差別的言動が広がってきたことです。彼らの暴力的な言動に衝撃を受けました。よく、ここまで言えるなと思ったのです。僕も小説のテーマにもしてきた在日朝鮮人・韓国人が辿ってきた歴史、差別の歴史についても露骨な歴史修正主義がここまで広がっているのだと思いました。これはSNSで、匿名で発信する人々だけの問題ではありません。
実名で語る著名人であっても、ほんの数年前であれば、社会的に大きな批判を受けるような暴論を発信しても、何事もなかったかのように受け入れられています。書店には『ヘイト本』と呼ばれるような本が並び、当たり前のように売れています。やがて新しい戦争がやってくるのではないか、という危機感もありました。そこで現実に起きたニュースに虚構のニュースを織り交ぜた小説を書くことで、自分が想定する最悪の未来を描けると考えたのです。
作中にある差別表現の多くは、現実の社会でもっと過激な形で広がっているものです。差別を放置した先にどんな未来がやってくるかを描きたかった。とはいえ、ネトウヨと呼べるような人物が主人公です。表現の一部を切り取られて論じられることは本意ではないので、法的拘束力は持ちませんが『お願い』として、担当編集者と相談の上で一文を入れることにしました」
昨年7月以降、書籍用に原稿をまとめ、2022年内に刊行すべく12月17日発売という時期も決まった。ゲラのやりとりを含めて複数回、誤字脱字、事実関係を含めて原稿を修正する機会があったが過去の作品と比べても特別に多くのチェックが入ることはなかった。樋口が表紙のデータを自身のツイッターで公開したのは11月25日のことだ。12月3日には見本も完成し、いよいよ12月17日の発売に向けて、書店への搬入を待つばかりとなった。
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事態が急転したのは12月15日である。この作品の担当者ではない版元の編集者が自身のツイッターアカウントで、この作品を「現実のヘイトスピーチを無断転載してるだけ」「差別に加担する自覚がない」といった激しい言葉で批判し、発刊について抗議の意思を示した。ついには編集者同士のLINEの内容まで公開して、自分の主張が如何に正しいかを喧伝し、フォロワーに助けを求めるのであった。一連のツイートは、ツイッター上で差別問題に関心を持つ層へと広がり、作品を読まずして樋口、担当編集者と版元への批判が高まるという異例の事態となった。この騒動を通して、本書は「ヘイト本」という批判を集めることになる。一点付け加えると、件の編集者が別のメディアで発信している主張を聞く限り、作品そのものを「ヘイト本」と断定しているわけではなく、後段にある意図しない形で本書の差別表現が使われてしまうことへの警戒感が強いように思える。
話を時系列に戻そう。同社への批判がツイッター上で続く中で、書店への搬入も始まっていた12月16日、唐突に回収が発表された。樋口に一連の決定までの経過はほとんど知らされていなかった。発売の数日前に、社内から出版に反対する声が上がっているという連絡を担当編集者から受けてはいたが、少なくとも初版は店頭に並べるという連絡だったという。イースト・プレス側がより詳細に回収理由を公表したのは、12月18日のことだ。一部引用しておこう。
《弊社「中野正彦の昭和九十二年」(12月15日搬入)の刊行及び回収について大変お騒がせしております。当該書籍についてですが、その内容の表現手法の個性から、出版にあたりしっかりとした社内議論が必要であると考えます。しかし、今回刊行に至るプロセスにおいて社内で確認すべき法的見解の精査や社の最終判断を得ることを行っておりませんでした。同時に刊行時においても契約書の締結が終了しておらず、刊行における責任の所在が曖昧だということが発覚しましたので、社内協議の上、回収対応といたしました》
《別の社員が社内で知り得た情報について、個人の考えを当該書籍刊行前に自身のTwitterに公開したことで、社内外たくさんの方々よりご心配の声をいただきました。思うことがあったとはいえ、あのような一方的な言動が正しかったのか、著者や言われた側はもとよりこの件に関係のない他の社員、弊社に関わる様々な方々の業務にも影響が及ぶとの想像力がなかったのかと考えます》
このリリースから明らかになったのは、あくまでイースト・プレス側は刊行プロセスまでの問題と捉えているのであり、「別の社員」がツイッターで問題視した差別表現に対する問題提起は回収と関係ないとしていることだ。それは、年を跨いで1月17日付で公表されたリリースからも明らかである。
《回収決定に至りました理由は、本書について差別思想に基づくもの、またはこれを助長するというような判断をしたものではございません。また、刊行前に弊社の社員が個人のTwitter上で樋口氏及び本書への言及がありましたが、それは回収の要因ではなく、よって樋口氏に何ら責任がないことは明白です》
さしあたり大きな論点は2つある。第一に回収の主要因とされた契約プロセスに不備はあったのか。第二にイースト・プレス側がいくら無関係と主張しても、時系列を整理すれば結果的に「差別表現」に対する問題提起と回収は完全に時期としてリンクしてしまうことだ。〝結果的〟に出版社は、樋口の作品を切り捨て、回収という名の自主規制の道を選んだ。「ヘイト本」ではないと、いくら強弁しても、第一の論点における主張が成立しなければ、差別表現に問題を抱えた本というレッテルは残る。
では、イースト・プレス側の主張はどの程度妥当なのか。日本の場合、正式な出版契約書は通常、書籍の完成がある程度見えてきた時点で交わされる。今回、樋口が16日の時点で契約書を交わしていなかったのは事実だ。だが、それ以前に編集者とのメール等でのやり取りのなかで、初版発行部数、印税の割合まで決まっていた。表紙をめぐるやりとりを見ても、製本までの過程も通常の出版プロセスと同様だ。契約とは「契約書を交わした時点で成立するものではない」ということは、民法の基本的な考え方である。
「今回刊行に至るプロセスにおいて社内で確認すべき法的見解の精査や社の最終判断を得ることを行って」いなかったという主張が、具体的に何を指すのかは定かではない。ゲラのやりとりはともかく、装丁担当者への発注、印刷・製本をする業者の手配、何より初版発行部数も担当編集者が勝手に決めていたということは当然だが考えにくい。社内プロセスの問題も、作品の回収を正当化する理屈としては弱い。具体的に数字のやり取りまでした記録が残っており、製本までした以上、樋口からすればイースト・プレスとの間で契約は存在していると考えるのは当然のことだ。
樋口サイドの代理人を務める弁護士も「出版業界の慣習に照らし合わせて両者の間に契約は成立していると考える。ここに議論の余地はない。慣習そのものに問題があるという指摘はありえるが、今回、そこは論点になっていない」という立場である。私もこれに同意する。
取材の中では、出版社側がフィクションと銘打っているとはいえ、多くの著名人が実名で登場することによって、小説内の描写による名誉毀損などの法的リスクを恐れたという話も聞いた。だが、それならば事前にリーガルチェックを入れるなどして、樋口と丁寧に打ち合わせを繰り返せばいいだけである。適切なタイミングでの法的チェックを怠ったことの責任は一義的には出版社側にある。どうすれば出版できるかを示す責任もあるはずだが、最終的にイースト・プレス側は同社から出版はしないと樋口サイドに通告した。
社内プロセスの不備という書き手側にはおよそ感知できないことを理由に書籍の回収を認めるということになれば、最悪の場合、依頼から数年かけて原稿を書き上げたとしても、一円にもならないまま出版社側の都合で無報酬になるリスクを書き手に強いることになってしまう。このレベルでの回収を認めてしまえば、書き手は担当編集者とのメールでのやり取りだけでなく、回収を避けるために、リーガルチェックの有無を確認したり、どこまでが会社としての意思決定なのか、その都度文書レベルで確認を求めたりしなければいけない。
それがいかに非現実的な要求なのかは、書籍の出版に携わる多くの人々に同意してもらえると思う。「これを前例にしてほしくない」という樋口の言葉とともに、である。
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したがって、社会的な争点は第二に挙げたものに絞られる。その前提として、この小説の評価を記しておこう。本作は民族差別主義者のテロリストが主人公のフィクションである。差別表現がどのような目的で記されているのかを適切に踏まえなければ、回収の是非は論じられまい。
結論から書けば『中野正彦~』の作品としての完成度は、私が樋口の代表作だと考えている『民宿雪国』(祥伝社文庫)や『さらば雑司ヶ谷』(新潮文庫)には及ばない。政治と性を結びつけ、さらに暴力を絡めて描くという本作のテーマは、彼自身も語っているように若き日の大江健三郎も試みていることだ。本作でも、その影響を垣間見ることができる。だが、彼の作品と比べると樋口が構築した主人公は明らかに平面的だ。
大江が政治的なテロリストを一人称で描いた作品として真っ先に想起するのは『セヴンティーン』『政治少年死す』である。後者は1961年2月号の「文學界」で発表以降、右翼団体の抗議を受けて長らく書籍未収録のままだった。この作品はいまでも文庫で読むことができる『セヴンティーン』の第二部と位置付けられている。一部と二部を連続して読むことは全小説集が刊行された2018年まで、57年にわたって封印されてきた。1960年に「政治少年」だった山口二矢による社会党・浅沼稲次郎刺殺事件、61年にこれも政治少年の手で起きた中央公論社社長宅襲撃事件と言論界を揺るがす暴力が続いた。その余波を受け、20代の大江が描いたこの2作は連続して読んでこそ初めて真価が発揮されるにもかかわらず、その機会は奪われ続けてきたのだ。
『セヴンティーン』は、「17歳=セヴンティーン」になったばかりの「おれ」が一人称で世界に苛立ちをぶつけ、性を語り、時代の閉塞感を畳み掛けるようにぶちまける。「おれ」は極右団体の活動と出会い、多くのインテリが《左》のご時世にあえて《右》になることを決意する。「おれ」は《右》として、「十万の《左》どもに立ちむかう」。彼は性と政治を重ね合わせることによって、独特の恍惚感を得て「十万の《左》どもに立ちむかう二十人の皇道派青年グループの最も勇敢で最も兇暴な、最も右よりのセヴンティーン」になっていく。
第二部『政治少年死す』は「おれ」が「死を超え、死から恐怖の牙をもぎとり、恐怖を至福にかえて死をかざる存在」である「純粋天皇」との一体化を夢見て、テロリストとして政治家を刺殺する。「おれ」は性的な衝動を大いなる「純粋天皇」にぶつけるかのように、政治的にエスカレートし、テロへと突っ走る。「おれ」の純粋すぎる危うさは、世界で起きる自爆テロ、真偽不確かな情報をもとに「在日」をバッシングする日本の極右にのめり込む心理に通じるものがある。20代半ばで、まだ少年たちに世代的にも近かった時期にしか持ち得ない感受性で、社会に追い詰められたと思ってしまう少年が秘めた若さゆえの危うさを繊細に描き出す。大江の想像力は、右翼少年・山口二矢による社会党委員長刺殺事件に密接にリンクする小説を生み出した。
左派に属すると見られていた大江が、右派テロリストを一人称で描く。しかも、見ようによってはヒロイックに、である。大江自らをモデルにしているかのような南原征四郎なる青年小説家を登場させ、「おれ」との問答のシーンまで用意している。弱々しい南原は、しかし、最後まで自説を曲げずに「おれ」と対峙するが、いかにも戯画的である。左派知識人はまったく魅力的に描かれていないし、平和運動に取り組む団体も突き放しているような記述が続く。ここは左派からの批判も当然出てくるだろう。保守派が、性的な描写と天皇を結びつける「おれ」の描き方を大いに批判することも想像に難くない。多面的に展開された挑発が、作品の魅力として昇華されるまで少なくない時間がかかってしまった。
作品の背景について大江は、読売新聞記者(当時)であり、おそらく彼が最も信頼している聞き手である尾崎真理子のインタビューにこう答えている。
「戦後民主主義者である自分の中には、天皇に命を捧げる右翼少年の心情に入っていって小説に書きたいという、矛盾した思いも抑え難くあった。10年くらい左右両派から激しく攻撃されました」
「様々なテロが起こるたび、〝今、起きていることは自分がかつて小説に書いた〟と感じてきた。なぜ若者たちは自爆テロに突き進むのか。政治的な熱狂と性的な衝動は人間の同じところから発生し、現実化する……。青年の頃、未熟なまま直観して『叫び声』なども書いたのです」(読売新聞2018年5月6日付朝刊)
大江は別の座談会では、「自分の一種政治的なものに対するアイロニーの気持ち、それから超国家主義の中で完全に天皇と自己同一化する誘惑とその不可能性」(井上ひさし、小森陽一編著『座談会昭和文学史 第六巻』集英社)が自身の文学生活を貫いていると語る。
戦後の民主主義とともに生きようと決意しながら、右翼テロリストの少年の心情を仔細に描きたいと狂おしいほどの情念を内に秘める。その内発的な欲望が形になるのは、何より小説しかない。社会的発言以上に作品は雄弁に作家の思想を語る。政治的に正しい立場からの発言だけでなく、抑えがたい矛盾や衝動を描く。そこに時代を超えた叫びが内包されている。大江のアイロニーは、自身を貫くだけでなく、多方面の人々を傷つけ、心を抉った。そこにあるのは見たくないものを見せた、ということだけでない。口では民主主義について理想を語っているが、右翼少年の純粋さへの憧憬を抱え、一体化するかのごとく描き出したいという認め難い本音を作品へと昇華させんとする覚悟がある。その覚悟が社会を揺るがし、人を傷つけてもなお必要な問いを叩きつけた。
樋口の作品もまた、右派テロリストの内面を徹底的に記述しようと試みている。大江が採用した手法に近いものはあるが、現実のSNSに強い影響を受けすぎているためか、肝心の中野の人物像、特に内面描写は濃密なように見えて、実際は薄いものになった。もっとも、その薄さは大江が自身に内在する矛盾を描こうと試みたのに対し、樋口はあくまで他者としてのネトウヨを描いたという違いから派生するという見方もできるし、現実のネトウヨが薄っぺらい現実認識で、差別感情を発露していることを描き出すことに批評性が宿るという言い方もできるのだが、それが成功しているか否かは大いに議論が分かれるだろう。
樋口には、『民宿雪国』で注釈めいた「あとがき」を記したことへの後悔がある。そこでは彼が編集者時代に韓流ブームで韓国映画に触れ、韓国映画専門雑誌を立ち上げるほどにのめり込んだことを明かした上で、こう続けた。
「誤解を受けたくないのでここで明言しておきます。私は差別を助長するためにこの物語を書いたわけでは絶対にありません。ですから私は、『民宿雪国』に限らず、自分が書いた物語に登場する差別主義者には、それぞれ惨たらしい死を与えています」
本来ならば、そんな注釈はまったく必要としないのが王道の小説だが、どこかで批判を恐れてしまったのだろう。差別に対する樋口の姿勢は、今も変わっていない。私のインタビューでも強調していたように、今作も「英文学者の吉田健一(吉田茂元首相の息子)が言うような『相手になりきる想像力があって、初めてその息の根が止められる』」ことを実践的に試みる作品として位置付けることができる。ネトウヨが実際に使っている言葉を使い、それを繰り出す人の内部を描き尽くすことで、差別を肯定する思考そのものの構造を炙り出したい――。その意欲は作品から十分に伝わってくるし、全体の文脈を踏まえれば特定の表現を抜き出し、「これはヘイト本である」という主張には相当な無理があることがわかる。
だが、それゆえに『民宿雪国』のようなあとがきや余分な注釈を付け加えずとも、ネトウヨや現実に跋扈する差別言説に対峙するための小説を書き上げるという目的を達成することに注力したように読めるのだ。作家の強い執筆動機は、当然ながら作品にも影響を与える。目的のため必然的に戯画化の矛先が向けられるのは大江が試みたような作家自身の深い内面ではなく、中野の表層になったのではないか。テーマそのものはもっと深く掘り下げることができるし、樋口ならばそれは可能だというのが私の考えである。
ここで第二の論点に応答するための素地が整う。
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私の本作への評価は必ずしも高いものではない。だが、今まで試みてきたようにこの作品は批評に値する。印刷され、世に送り出されるに値するものだ。物議を呼ぶことにはなるだろう。好意的な評価だけでなく、心無い批判や誤読に近い「ヘイト本」というレッテル貼りも起きるかもしれない。だが、多様な争点で論じられるに値する小説家の思いがこもった一冊であることは揺るぎようがないのだ。イースト・プレスの判断はいくら弁明を重ねたところで、自主規制でしかない。一度は出版を決めて、製本までしながら謂れなき回収という判断をされたことで、今後は「曰く付き」の本となり正当に論じられる機会は奪われてしまった。
この点は、強調しすぎてもしすぎることはないように思える。
鴻巣友季子の『文学は予言する』(新潮選書)によれば、アメリカでは2021年から、「特定の本を図書館から排除する動きが急激に盛りあがっている」という。興味深いのは撤去要請が多い作品リストの中に、ディストピア小説が含まれていることだ。オルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』は反宗教的、反家族的テーマ、性的内容が含まれていることが撤去すべき理由に挙げられ、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』は共産主義への反対または支持、性的内容、暴力描写が問題視された。ディストピア小説は一つ一つの文章を抜き出せば撤去理由に当たるような描写はある。人種差別が横行し、マイノリティが差別や弾圧の対象になるような場面も多く見られる。だが、小説は全体の文脈を読まなければいけない。こんなことをいちいち書くことも馬鹿らしいが、ハクスリーがあの世界を本当に「すばらしい」と思っているわけではないことは一読して明らかだ。
鴻巣も同書のなかで論じているが、私もまたこの事態を知り、想起したのは冒頭に発言を引用した桐野の『日没』(岩波書店)である。舞台はヘイトスピーチ法、有害図書法が制定された現代の日本である。主人公の作家、マッツ夢井の元に、「総務省文化局・文化文芸倫理向上委員会」(ブンリン)から召喚状が届く。彼女が書いた作品のなかの性描写において、性暴力や犯罪を肯定するかのように描いた、そして「子供を性対象にする男」を登場させたと読者から告発を受けた。彼女は、「療養所」と呼ばれる事実上の思想矯正施設に収容される。
この小説の白眉は、告発するのは読者であり、国家が主体的な判断を下さない点にある。読者は道徳的に、倫理的に、政治的に正しい振る舞いをすることを表現の世界にまで求め、国家はそれに呼応する。悪人は誰もおらず、表現として肯定することが憚られるマッツが書くような小説を問題だと言ったところで大した問題ではないと思われている。なぜなら、不道徳な表現をやめれば済むだけの話なのだから……。読者の正しさを求める邪気なき通報が、表現を追い詰める。2021年に私が取材(現代ビジネス「正しくないものを絶対許さない人々と国家…これは「日本の近未来」なのか」)をしたとき、桐野は極めて的確に状況を読み解いていた。
「小説は本来、何を書いても自由なはずです。作家が自分たちで、表現の幅を狭めるようなことをしてはいけないと考えています。幅を狭めたところから生まれる小説は、つるつるとしていて傷がない球体のような作品ばかり、そして正しいものばかりになるでしょう。それは、作家が正しいことしか言えなくなる時代を自ら招いてしまっているとも言えるのです」
ひとつ付け加えるとすれば、作家だけが「正しい時代」を招いているわけではなかったことだ。作家とタッグを組んで作品を世に送り出すはずの出版社にも、出版業界で働くライターの中にも「正しい時代」を招きたい人々は確実に存在している。社会的に許容されないヘイトスピーチが記されている小説だから回収されてもしかたがない、フィクションとはいえ名誉毀損等のリスクがあるから合理的な経営判断で回収されてもしかたがない、人を傷つける小説だからしかたがない、ディストピア小説に書かれた言葉は現実の差別に使われる懸念があるからしかたない、なんとなく面倒そうだから取材をやめておこう……。小さな納得を積み重ね、大きな問題を避ける選択を続けた先に、表現だけでなく議論の自由をも失われていく社会が待っている。
『中野正彦~』を含め、ディストピア小説は「しかたない」の要素が当てはまりやすい。作品の表現が現実の差別に使われたらどうするのかという批判は絶えることがない。作品が悪いのではなく、差別をする者が悪いという議論はどうにも受けが悪い。だからといって言葉を紡ぐことを断念してはいけないと思うのだ。再び、桐野の言葉を引いておこう。
「これまでの日本文学では女性差別的な作品が名作と呼ばれてきましたが、そうした作品を『女性差別がある』と断罪して、捨て去れば、日本の女性差別は無くなるのでしょうか。決してそんなことはありません。
むしろ、問題に蓋をしてなかったことにしている。これは歴史修正主義にもつながりかねない流れです。当時の限界として読み、そして残すべきではないでしょうか。
差別は今の社会に残っている問題です。今の風潮は、困難な現実はちゃんと存在しているのに、小説の中では消していこうという流れを推し進めるのではないか。私にはそう見えますね」
作家の言葉は、2年前以上に、深くなり、そして危機感を持って響く。
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表現の自由研究の第一人者、松井茂記(ブリティッシュ・コロンビア大学)が記した『インターネットの憲法学 新版』(岩波書店)などを引けば明らかなように、何を「ヘイトスピーチ」「差別的表現」とするか、表現の自由をどのような形で守っていくかは各国ごとに歴史と文脈によって異なることがわかる。ヨーロッパでも、アメリカでもどんな表現であっても「表現の自由」があるが、あらゆる表現が無規制のままに許されるという国はない。そして、その時々の「空気」といった不明瞭な基準で議論を積み重ねている国もまたない。
日本でもインターネット上の差別表現について、研究は進んでいる。松井が記すように、これまで積み上げてきた表現規制の議論を踏まえれば、「ヘイトスピーチの中の極端なものは、したがって禁止も可能かもしれない」。問題はその先だ。「しかし、人種的少数者の名誉を毀損したり、人種的少数者などを侮辱する表現に対する禁止については、これを憲法上正当化することは困難であるように思われる。対象となりうる表現があまりにも不明確で、かつ広汎であるため、憲法上保護される表現までも制約される恐れが強い」という。
現実社会の差別表現規制でも複雑な論点が含まれていて、絶対的な正解は存在しない。その都度、歴史と文脈、積み上げられた判断をもとに考えていくことになる。ましてや、樋口作品が提起することになったフィクション作品における差別表現はさらにもう一段階、複雑になっていく。回収という手段で議論の機会そのものを奪ってしまうのは、社会にとっても明らかな不利益だった。
『日没』の印象的なラストシーンは、日没サスペンデッド、すなわちゲームオーバーだった。日没と対になる言葉は夜明けである。桐野が描き出した絶望的な世界は、もしかしたら希望も含まれているかもしれないと思って読んでいた。明けない夜はないからだ。だが、今はこう思う気持ちが強まっている。私たちが立っているのは、薄暮なのかもしれない。私が暗闇の先に見ている光がすでに日が沈んだあとの黄昏だとすれば、やがてもっと暗い夜がやってくる。夜明けを見るためには時間が必要だ。たとえば、書き手と出版社が手を携え、より強く自由を擁護する言論空間を創り上げるための……。
(「新潮」2023年3月号初出)
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