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チャオプラヤー川にパスポートを投げ入れないで(note創作大賞に応募中)

不思議なご縁

現在、私は40歳。

大学時代、外国語学部ドイツ語学科に所属していたの私は、タイに留学しようか迷っていた。

ドイツ語学科でタイ?なぜ?
その理由はたった1つ。

私は、昔からタイという国に不思議なご縁があるからだ。



ご縁:1回目


1回目のご縁は、2001年、高校時代にAFSの留学派遣プログラム。
日本から約50名がASEAN諸国に派遣され、私はそのうちの1人だった。

インドネシア・タイ・マレーシア・フィリピン等の将来ASEAN諸国を担う代表として日本から約50名が選ばれた。
当初はインドネシア派遣のはずだったが、インドネシアの情勢が悪化して急遽タイへ変更。右も左も分からない、異国の地「タイ王国」との出会いはここから始まった。

派遣期間は、夏休みの1カ月間。
タイの家庭にホームステイをし、夏休みの期間の約1カ月間、タイの現地校に通った。現地校は、タイの王族も通う有名国立高校。
英語を流暢に話せるのはもちろん、その他の外国語として日本語・フランス語・スペイン語等の読み書きができる生徒が大勢いた。

美女美男が多い。そして、どちらの性にも属さない生徒も多数。
みんなが仲良く共存して暮らしていた。

タイに行った第一印象は、とにかくみんなが優しいということだ。
タイは「微笑みの国」と呼ばれているだけあって、デフォルトが笑顔だ。

1番使われている言葉は、その国を表しているように思う。
タイで1番使われている言葉は「マイペンライ」。
「マイペンライ」とは、大丈夫だよ!気にしないで!という意味がある。
失敗しても、遅刻をしても、心配事を相談しても、必ず「マイペンライ」(大丈夫、なんとかなるから)という言葉が笑顔とともに帰ってくる。

日本で1番使われている言葉は‥「すいません」かもしれない。

「すいません」の文化が染みついた高校生の私が「マイペンライ」の文化に触れ、「こんな生き方があるのか」と肩の荷が下りた気がした。

タイ留学から帰国後のショック
2001年9月10日というこの数字を忘れない。
2001年7月にASEAN諸国に約1カ月間派遣されていた私たちは、9月10日に
留学成果を発表し合う為のシンポジウムがあった。

当時、日本で女性初の外務大臣に選ばれた田中真紀子さんが私たちの留学派遣プログラムのフィードバックを2001年9月10日に聞きにきて下さっていたからだ。だが、次の日にアメリカで同時多発テロが起きた。
そこから各国の外務省が対応に追われたのは想像に容易い。

ご縁:2回目


2回目のタイとのご縁は大学2年生の時。
1回目のタイとの出会いから4年後のある夏のことだった。

JODC(財団法人海外貿易開発協会)のプログラムの一環で、タイの日系企業にインターン生として参加した。

私は、タイの東部、バンコクから東に約180キロメートルの距離にあるラヨーン県の製紙関係の企業に派遣された。

ラヨーン県は、重工業や石油化学産業が盛んで、タイの主要な工業地帯の一つだ。多くの工場や企業が集まっていた。
工場地帯以外は、のどかな自然が残り、田畑やパイナップル畑が広がっていた。

タイ人と同僚になり、いよいよこの国が好きになってきた。
タイ人の笑顔と生温かい風は、私自身のがんじがらめの真面目さを解放してくれているような気がしていた。
彼らはとてものびのびと仕事をする。タイ人は同僚のことを、タムガーンプアンと言う。タムガーンが仕事、プアンは友達。仕事場にいるお友達。まさにそんな雰囲気だった。

出勤日2日目にして、「なんかえみって、手足が短いからドラえもんみたいだね」ははっ、と満面の笑顔で言われた。
日本であれば、普通、職場で海外から派遣されてきた社長と同じ国籍を持つインターン生にそんなことは思っても言わないだろう。

通勤は、同僚たちと共に会社のバスを利用していた。
ある日、会社が終わるといつものようにバスに乗り込んだ。
すると・・会社専属の運転手の送迎バスがゆっくりとスピードを落として止まった。
何事かと思うと、運転手は「ガソリン入れ忘れちゃった」と笑っていた。
テヘッという漫画の吹き出しが付きだ。
同僚たちは「しょうがないな~」といいながら、田畑の真ん中でカエルが鳴く中、ガソリンの到着を待った。

1時間半は待った。でも、誰も怒っていない。
あまりに暇だったからか、みんな歌を歌っていた。

日本はどうだろう・・日々改善、タイパ、コスパが命。
そんな国で、受験戦争を戦ってきた私は、ますますこの国が好きになった。

タイで生活してみたい
高校時代のタイでの派遣プログラムでホームステイをしながらタイの高校に通学。インターンシップでタイ人と一緒に働く中、この国と人に将来関わりたい。それには、やはり現地の人が喋るタイ語が必要だと感じた。

ただ、小心者の私は迷っていた。
今まで一人暮らしもしたことがない。初めての一人暮らしがタイ。
ハードルが高い。それに加えて、私の通った大学には外国語学部はあるけれど、タイ語学科はない。

もう一度言うが、私はお堅いドイツ語学部に所属している。
タイ語となんの共通点もない。
単位交換をすることはできず、留学するとなれば、1年休学して周りのみんなより1年間遅れてしまう。

留学できない理由を見事に並べていた。

自分自身にGOサインを出したいのに出せない。留学したい・・。
そう思う度に、それを遮る色んな心の声が聞こえる。
留学は、就職にふりになるのではないか‥。
タイに行って一体何になる‥。

気持ちだけがふくらんでいくものの、その1歩は踏み出せずに月日が流れていた。

ご縁:3回目


タイに留学をしたいけれど躊躇していた。そんな中、タイとのご縁がまたやってきた。今度のご縁はまるで嵐のようなご縁だった。
私が所属していた部活(ESS:英語会)にとんでもない勇者がいたのだ。

その勇者は経営学部、同学年の親友。
今までタイと何の関係もなかった彼は、夏にタイ旅行に行った。ほぼ2ヵ月という長い大学の夏休みが終わると、彼は開口一番、私にこう伝えた。

「えみ、なんだか、タイが好きだから1年休んで留学してくるわ」

・・・

それは、「ちょっとそこのコンビニで飲み物買ってくるわ」と同じトーン。
私は、あっけにとられてしまった。

一緒にジムに運動に行ったり、ファミレスで山盛りポテトを食べたり、美容の話をしたり、合宿でワイワイ騒いだり‥私にとっては、彼が一番の親友。

そんな彼がさらっと、「タイに留学してくる」と。
私は呆気にとられ、一人置いて行かれるようで寂しい気持ちになった。

なぜ行くのか理由を聞いてみた。
「タイの生活が楽しそうだし、タイの大学で英語の勉強をするのもいいと思った」とのことだ。

彼の行動力が羨ましい。

私は高校時代からタイでホームステイまでしていた。インターンシップでタイの日系企業でも働いた。それなのに、うじうじ考えている自分が情けなかった。

私は、勇気が出ないと踏みとどまっていたが、彼はあっという間に手続きを終えて一年留学してしまった。

彼とわたし

行動力のある彼は、自分でタイ現地の大学に申込手続きを終えていた。
留学準備のため、山のような紙の書類を苦労しながら申請する彼が
羨ましかった。彼の顔は、未来への希望と期待でキラキラしていた。

彼が暮らし始めてから9か月後の夏、私は自分の迷いを振り切るために行動した。

行動といっても、彼がどんな学生生活を送っているかを見に行くという小さな行動だ。

バンコク宿泊1日目
私の泊まっているホテルのロビーに彼が迎えにきてくれた。
見たことのないサングラスにガバガバのデニム、大きいサングラス。
大きな歩幅で闊歩してきたので、すぐに彼だと分かった。
サングラスを外すと、そこには以前と変わらない明るい笑顔があった。

その日は、サイアムパラゴンという日本で言う三越デパートのような所の
スタバに行った。タイの商業施設は、1年中凍えるほど寒い。

彼が最初にコーヒーをオーダーすると、タイ語で話かけられていてそれを流暢に返していた。彼は、元々目がぱっちりしていた。色黒の彼は、日本人だと分からないのではと思った。

私が「タイ人に間違えられない?」と聞いたら彼は自慢げに数日前の出来事を話してくれた。

「なんかね、BTS(韓国のアイドルではなくタイの電車:Bangkok Sky Train)に乗った時の話なんだけどね‥タイ語で友達と電話してたのよ。
そしたらね、日本人の観光客の女2人がいて、コソコソあたしのことカッコイイって話してるのよ。成宮君に似てるって!」

そして彼の言葉は続く・・

「あたしのこと、タイ人だとか、日本人の可能性もあるんじゃない?とか、ごちゃごちゃ、ごちゃごちゃ、言ってるの。あたし、心の中で日本人よ!って叫びたかったわ。でね、その時、日本人の友達から電話がかかってきて日本語で喋ったの。」

彼は、タイ人ではなく日本人ということを観光客の女性2人に分からせた。
そして‥

「その時、その日本人の女子2人の顔ったら、面白かったわ。あたしがカッコイイって言ってたこと聞かれたんじゃないかって心配そうだった。そう!そうあたしってかっこいいのよ!」

そう、彼は自分がかっこいいと言いたかった。
彼はそんな個性の持ち主だ。

現地の友人も沢山いて、留学先に馴染みまくっている彼が羨ましかった。

彼の笑顔は眩しい

久しぶりに会った、彼の笑顔は眩しい。
スタバの後は、お昼を食べてスウェンセン(Swensen’s)というタイのアイスクリーム屋さんで、学生生活、恋ばな、部活のメンバーの話、私がタイ行きに一歩踏み込めないことなどを5-6時間近く語り合った。

どこの国にいても、話す内容は変わらない。

私は、早く食べるのが苦手だ。そして、喋りながら食べるのも上手ではない。話に夢中になり、気が付くとアイスが3色の変なグラデーションになっているのに気が付いた。
一方彼は、話すのも早いが食べるのも早い。
彼の方が私より3倍量は話しているのに、なぜかアイスはもうなくなっている。
「あらっ、たべてあげるわよ」とアイスクリームをスプーンいっぱいに入れて一口で食べてくれた。

その後、夜はマーブンクローというアメ横のような雰囲気の雑貨関係や洋服が集まる建物に連れて行ってくれた。

一緒に洋服を選んだり、アクセサリーを購入したり、その姿は女子大生。
プリクラを撮ったりと楽しかった。本当に彼といると楽しい。

チャオプラヤー川事件はおこった


2日目、またホテルのロビーまで迎えにきてくれた。
その日は、チャオプラヤー川で船に乗り、観光をしようと提案してくれた。

チャオプラヤー川とは、タイに流れる最長の川だ。
「タイの生命の河」とも呼ばれ、その豊かな河川がタイの農業を支え、文化や伝統の発展に寄与している。

最近読んだ、あるタイの小説では、タイの寺院はチャオプラヤー川に向けて入り口が開かれていると書かれていた。

そんなチャオプラヤー川で事件は起こった。

「えみ、ちょっとパスポート見せてくれない?」と親友。
当時は、出国の度にスタンプが押されるので、それでもみたいのかな?と思い、赤い10年期限のパスポートを彼に手渡した。

すると、彼は私パスポートを見て、にやりと笑い、「そ~おれっ」と言って、チャオプラヤー川に私のパスポートを投げた・・

「ギャー!!」私は悲鳴をあげた。

周りの観光客やタイ人もびっくり仰天!!

私は、ついに彼が9カ月間の留学の中、ストレスや暑さで頭がおかしくなったと思った。
チャオプラヤー川は濁っているので絶対に探せない。しかもあの勢いで投げたら、かなりの距離・・
外務省に申請して、飛行機を取り直して・・一瞬で対策がバババッと浮かんだ。

その後、「う~そだよ~」と満面の笑顔。
彼の手には私のパスポートがあった。
私があっけにとられていると彼はこう続けた。
「日本に帰れないと思ったでしょ?さっさと腹くくって、あんたもタイに来なさい!」。

私は、その子のパスポート事件があり、ふっきれて彼の帰国後に1年後に留学。

人生において、その子は私の背中を押す・・というよりは蹴ってくれる存在。

勇気は1人では出せない

人生には背中を蹴ってくれる人が必要だ。
彼がいなければ、私は全く違う人生を歩んでいた。

私はこの留学後、日本に帰ってからタイ語を生かすべく
丸の内のタイ料理屋さんでタイ人とともにウェイターとして働いた。

その時のつながりで今の主人と出会い、今は小学生2人のママだ。

タイとのご縁が重なり、最後に彼に背中を蹴ってもらったことで、私の今はある。

油断をしていたら再度蹴られる


彼は、現在香港で働いている。たまに彼が帰国すると私たちはファミレスで落ち合う。
お互い40歳。いい年なのだし、ホテルのラウンジでもいいのではないかという考えがふと頭によぎる。しかし・・

私たちは、喋り出すと大笑いになることが多々ある。ホテル向きじゃない。

ファミレスに着くと、私たちは必ず大きいパフェを食べる。
私は、彼よりも3分の1のパフェを頼む。そうすると大体食べる時間が同じになる。

彼は、海外でバリバリ仕事。
私は小学生の子どもが2人いて幼児教育の先生。生きる環境はまるで違う。だけど、会って話せば4,5時間笑っていられる。

ファミレスでアイスを食べながら、私は自分のHPを作るか迷っていることを彼に伝えた。
そうすると思わぬタイミングで彼の蹴りが入った。

「あのね、今日実は私一眼レフ持ってるのよ、海近くで待ち合わせだったじゃない?だからいい景色が撮りたくてね。でも、今決めた。私、あんたを撮るわ。そしてそれをHPにでかでかと載せるがいいわ」

「えっ‥あっ‥はい。」

‥あっけにとられながら、右見て、左見てなどのポーズを指導されながら撮影。

そんなこんなでできたHPがこちら。
(ご興味がある方は覗いてみてください)

タイ帰国後の私と仕事

私は、無事約1年間の留学を終えて帰国。
留学時に、タイでは、日本製の車やバイクが多いことに感銘を受け、日本の自動車関連会社でタイに子会社がある会社を探し就職した。

関連子会社とタイ語でのやり取りもでき、会社に貢献しながら働けることがとても嬉しかった。

その後、タイ料理屋さんがきっかけとなり主人と出会い、主人の駐在でポーランドで3年間暮らした。

人生を変えた出会い

そこで人生を大きく変える出会いがあった。
それは、モンテッソーリ教育との出会いだ。
息子が偶然通った園がモンテッソーリ園だった。

それは、息子が1歳10カ月で入ったモンテッソーリ園での個人面談での出来事だ。

担任の先生は、ある1枚の紙を私に手渡してくれた。
その1枚がこちら。

“The Buld”


この図は、生前から24歳迄の人間の成長を表し、生前から6歳頃までの発達の重要性を表しています。
この図は“The Buld”つまり、「球根」と呼ばれるように、球根となる部分は生前から6歳のうちに育つことを表している。
 
息子の担任の先生は、その球根の図を見ながら、強い眼差しで、ゆっくりとこう言った。
 
「私のクラスの子ども達は、現在、生命の最も大切な時期にいるの。球根がしっかりしていれば、やがて素晴らしい花が咲くわ。私達は、この大切な時期に関わっているので、日々の仕事にとても責任を感じているのよ。」

仕事に対して、情熱と責任感を持った眼差しは、私の仕事観をガラリと変えた。
 
モンテッソーリ教育を知る以前の私にとって、園の先生方は、「一緒に楽しく遊んでくれるお友達のような存在」だった。
 
面談を終えて何冊ものモンテッソーリ教育に関する本を読んだ後、6歳までの子どもたちに関わる教師の役割が、「子どもの人生の大事な時期に立ち会う重要な存在」としての意味を持つようになった。
 
この出会いから、私は生涯モンテッソーリ教育を通じて子どもに関わる仕事を志すようになった。

モンテッソーリ教育やモンテッソーリ園について知りたいかたは、こちらの書籍をご覧いただけると嬉しい。

モンテッソーリ教育

モンテッソーリ教育とは、イタリアの医師、マリア・モンテッソーリ(1870~1952年)により発案された教育方法。

子どもの自己学習力や自発性を中心にした子どものための教育だ。

日本では、2016年に最年少で棋士になった、将棋の藤井聡太さんが幼少期にモンテッソーリ園に通っていたことで注目を集め、少しずつ「モンテッソーリ教育」という言葉が聞かれるようになった。
 

モンテッソーリ教育を受けた有名人

海外では、アンネ・フランク、アマゾンの創設者ジェフ・ベゾス、Googleの創業者ラリー・べイジ、バラク・オバマ氏(元アメリカ大統領)など、多くの有名人がこの教育を受けている。

ジェフ・ベゾスは、2020年から自身が受けた教育が素晴らしかったとの理由で、ジェフ・ベゾス・アカデミーを設立し、モンテッソーリ教育を取り入れた園をワシントン州、フロリダ州、テキサス州に設立している。

また、モンテッソーリ教育は、日本では幼児期のものと思われているが、より幅広い。

日本では、幼児教育が有名だが、実は海外では小学校~高校、介護施設にまでモンテッソーリの学びは生かされている。

今後の私とタイとの関係

現在、私は40歳。
そして、AMIの3-6歳の資格を持ち、現在インターナショナルスクールで勤務をしている。
そして、小学5年生と小学2年生のママだ。

小2の息子が社会人になる約15年後を目標に、タイで会社を興し、モンテッソーリ教育と日本文化を同時に学ぶことのできる学校が作れたらと思う。

調和を伝えたい

実は、現在は合気道を習っている。
その理由は、保育園や幼稚園はとにかく女性が多いからだ。

厚生労働省が公表している資料「保育士の現状と主な取組」によると、5年ごとに行なわれている調査で最新となる2020年の国勢調査では、保育士の男女比率は男性が約4%、女性は約96%

1年前に子ども達と課外活動で公園に行った時に変質者らしき人が近寄ってきたことがあった。
夏の暑い日、息を切らせながら、ショートパンツに薄汚れたランニングシャツ。何日かお風呂に入っていないのか、異臭がした。
視点が合っていないことから、おそらく酔っ払い、もしくはドラッグ‥
私は、遠目に危険を感じていた。
その不審者が段々と近寄ってきて「かわいいね」と子ども達に話しかけてきたのだ。

運よく警察の方が近くを通り、その方の不審な様子から職務質問のような形で私達とその人の中に入ってくれた。

「子ども達が万が一襲われた時に、はたして自分が対抗できるのか。」
私は自信がなかった。
もし、子どもになにかあったらと考えると恐ろしい。

この経験から、合気道を習い始めた。

合気道との出会い

合気道は植芝盛平(1833年~1969年)により造られた。

「合気道の理念と精神性の特徴としては、試合を行わず相手と争わない事、武力によって争うことを否定し、愛と和合、調和を大切にする心身の練成を図るのを目的としている点が大きな特徴です。」

『美しい合気道』著:白川竜次

合気道は武道の中でも、かなり特殊だ。
上記の引用からも分かるように、戦わない武道。
そして、「調和を大切にする」という理念がある。
そのため、合気道には試合がない。

技に関しては、てこの原理や遠心力を使うので、小柄な女性でも相手の力を使い対抗することができる。

モンテッソーリ教育と合気道の意外な共通点

モンテッソーリ教育と合気道は、「調和を大切にする」という根本の考え方が共通している。

今年の5月、山梨県山中湖の道場合宿に参加。
海外の方約80名、日本人約70名の150名での合宿をした。
そこで、70代の師範がとても興味深い合気道の考え方を説明してくれた。

「合気道は、相手と気を合わせる必要がある。だから合気道という。そこに調和が生まれる。人に対しての調和だけではなく、宇宙単位でものごとを考えなさい。人間対自然もそう。人間が環境破壊をすれば、地球温暖化につながり、今までしてきたしっぺ返しが必ずでてくる。調和を重んじよ。」

モンテッソーリ教育もコスミックエデュケーションと呼ばれています。
宇宙単位でものを考え、人だけではなく、生命や自然界のために何ができるかの調和を考えます。

動物は単に自分自身を満たすために食物をとるのではなく、生物であれ無生物であれすべての存在するものの共同によってなしとげられる調和のために、彼らに課された使命を、行動を通して達成するよう、食物をとる、ということです。

新しい世界のための教育 著:マリア・モンテッソーリ

著書ではそれ以降、例として、ミミズを挙げています。
ミミズは毎日、自分の二百倍もの量の土を食べる。
このミミズがいなければ、大地の生産性ははるかに劣っていた。つまり、ただ単に自分の生命維持のためだけに食べるのではなく、生きることによって調和をもたらしている。

合気道とモンテッソーリ教育の共通点は、視野狭窄を否定し、全体、つまり宇宙単位での調和を重んじている。

繋がっていく調和

パスポートをチャオプラヤー川に投げいれる(ふり)をしてくれた彼と私も調和がとれている。
彼が私にすることは、派手でどちらかと言うと荒技だ。
ただ、相手を傷つけることなく、相手を思い、勇気をくれること。
それも調和だと思う。
私は、そんな彼が大好きだ。

調和を大切に心掛けながら生活する中、ふと2001年9月11日を思う日がある。

もしも、世界に調和がとれていたら、あの日、ワールドトレードセンターが崩れ落ちることはなかっただろう。

さいごに

マリア・モンテッソーリはこのような言葉を残している。
「親愛なるなんでもできる子ども達よ。世界に平和をもたらすようにどうか、私達を手伝ってください。」この言葉は、モンテッソーリの墓石に刻まれている言葉だ。

モンテッソーリは、子どもの中にこそ、平和と調和を見出していた。
世界が平和になる為には、子ども達の力を借りなければならないと講演会や書物に残している。

タイとの偶然のご縁が重なり、私は、わが子と出会い、モンテッソーリ教育と出会った。

このご縁で、微力ながらも調和を大切に、調和の和を広げられるように生きていきたい。


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