ごはんがきらいだった人の話
わたしの夫は非常にデリケートな性格をしており五感にたいへん厳しい人である。
特に「耳」に関してはミリ単位で把握できる厳しい人間だ。
それが「目じゃなくてよかったね。」とおもう。目がミリ単位で把握できて絵の世界の中だけで生きてしまった人は人間の顔が歪んで見えるから誰とも性交渉できなくなるらしい。
夫は「喘ぎ声が何dBから何dBにかけてこう歪んでてセックスに集中できない」とか言わないから多分そこの聖域の方ではないんだろうけど、楽器とかスピーカーなどの物質に対して厳しい領域の人である。
歌は体が楽器だ。わたしは歌をうたう。
歌ってる身体をコントロールしてるのは当然自分である。
だから当然ダメ出しは自分に来る。わたしに言ってるわけじゃないんだけど、わたしに来たように感じる。
どれくらい言われるかというと「え、わたしいつアニーのオーディション受けた?!」ってくらいにそれはそれはこっ酷く文句やダメ出しをされる。
耳のことも含めてどんな感覚も「やや過敏な人」なのだ。わたしもところどころ過敏な部分があるから気が合うのだろう。「普通気にしないよね」ってところ、私達は気になるのである。
ただそんな夫にすら「味」に関しては一緒に住み始めた時から特になにか言われたことはない。
それどころかいつも食べ慣れて来たご飯を越えて私のごはんじゃないともうダメなのだと言う。
だから、多分、わたしはごはんを作るのが好きでもあるし得意だ。
かというて、わたくし、幼少期~思春期にかけてごはんを食べることが盛大に嫌いだった。もう食べたくない一心でいろんな工夫をこらすくらい食べたくない人間であった。
「子供はそういうもの」かもしれないが、まず白米が嫌いであった。肉は鶏肉の胸肉オンリー。塩・砂糖・味付け塩胡椒などの調味料は嫌いだ。当時の好きな食べ物は「ナス」「サンマ」「餅」で好きな調味料は「醤油」である。何時代の人間の味覚を持ってうまれたのだろう。
「世の中にカレーが嫌いな人なんていない」というセリフをよく聞くが、実際、ここに居た。毎日ナスサンマ餅に醤油をかけて食べれれば良い人で、ものすごい偏食な人間だった。
白米が食べれるようになったのは18,19歳の時に焼肉屋さんでバイトしてた時のこと。
そもそも「牛肉+タレ+ご飯」の組み合わせの意味が全然わからなかったのに人に誘われるがまま流されて個人で経営している焼肉屋でお手伝い働きをしていた。当時はライターすら使えず怖くて火はお客さんに点火してもらっていたから「焼肉屋で働いていた」って事実を自分自身もいつも忘れてしまうくらい働き方に自信はないのだが・・・
でもそこで食に関するとても濃い出会いがあった。
一緒にアルバイトしてたゆみさん。
当時40代くらいの女性で、私を週に2回焼き肉屋に連れ回す人だった。そしてその度にテーブルの上に丼のようなごはん2杯と食べ切れないほどの肉の皿をズラーっと並べるのだ。
ゆみさんの口癖は「わたしも若い時、こういう風にしてもらったの、だから可愛い子にはこういう風にしたいのよ。」だった。
ご飯も嫌いだし牛肉も嫌いなんだけど、でも断れなくて半ばほぼ無理っやり食べさせられて
それでようやく「こだわりなく食べれる身体」になったのである。
そのおかげで牛肉アレルギーにもなるのだけど、そこから何かの封を切ったかのように味覚が鈍感になり食べることに喜びを感じ始めた。
たぶん「味」を感じる能力が脳みその中で開いたのだとおもう。
東京に来てからそれは更に開いた。飲食店が「マズイ」のである。北海道から来た人間が「東京の飲食店はマズイくせに高い」と思うのは当たり前なのだけど
マズイも味覚のひとつだと断言!
飲食店はお客さんたくさん入らないと続かないんだから、その「マズイ」だってみんなにとっては「普通」なのである。
「マズイ」ってことでそれまでちょっとセンシティブ過ぎた私の食への精神はどんどん鈍感になり「なにが普通か」を読み取れるようになった。そして「美味しいものはそのまま美味しく召し上がる」という丁度良い精神状態を保てるようになり
もはや好き嫌いはほとんどない味覚良質な人間に育った。
それどころか食材から力強いパワーを感じることが出来るようになる!
今は健康状態が良好なのでそんなことはないのだけど、不健康な状態の時はその食材のパワーにやられてしまう時もあった(特に椎茸がやばい)
そんなふうになったら「心のこもった料理」というのがどういう感覚かも受け取ることができるようになり「料理は味じゃなくて心だ」と『何かうまいこと言いたい人』とかではなく、普通に感覚を持って言える。
なので「やった!ごはんが大嫌いだったのにごはんが作れるようになった。」とここ最近、思う。
ちなみに夫に出すご飯の味覚は「ややマズ」で彼は舌に対して感覚的にちょっとパンチを効かせたものが大好きだ。(調味料を入れればいいってわけでもなく油の熱し加減とかで表現できる。)
あと、ごはんが作れるようになった経緯には
味についてうるさい人もおらず、そのまま何も言われず放置されてたというのもあります。食についてだけでもなく、なんかやったところで特にすごい褒められたりすごい貶されたり、多くの関心ある言葉を言われた記憶がない。
でもそれが逆に功を奏したという形です。
愛情があり人間に関心のある大人って、耳だと「聞いて」目だと「見て」舌だと「食べて」と言葉の量が多い。「感覚は厳密にいうと言語化できない」ってことを知らない人もいるのではないでしょうか?
「え、そんなことなくない?」って思った人。あなたは言葉のプロです!
まあ・・・私についてきた神様には「こいつあまりにも食べ物嫌いだからそのうち食べないで死ぬ」って思われて、味覚に才能を注いだのでしょう。
神様、生き物、どうもありがとうね。
ちなみに本来なら歌でそうなりたいんですが、そういうわけにもいきませんかね?
【終】
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