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「評価」との向き合い方

「自信のなさが会社を辞めた理由だったんだろうね」
と、言われた。

確かに私は自信がない。

  • 自分が今「いい生き方」をしているのか。

  • 何かわからない「何か」から遅れをとっていないか。

  • 人を幸せにしたいとか思いながら、できているのか。自己満足じゃないのか?

  • 自分がいいと思ってやっていることは、知らず知らずのうちに誰かへの配慮が欠けたことをしているのではないか?

そんなことを常にぐるぐる考えている気がする。
なんとなく人間と関わるのが怖いのも、評価を恐れているからだと思う。
気持ちを伝え、伝えられることで何かしらの影響を与えてしまう。それがもちろんプラスに振れることはあるけど、マイナスに振れてしまうことを極度に恐れている気がする。

人の評価を満たしながら生きてこようとしてきて、大学や一社目で「評価を気にした意思決定は違うかも」と思って、その先で今私はフリーランスになって、評価に全身でぶつかりに行く立場になり、でも自分自身で自分を評価できる立場になり。
そのちぐはぐさに自分が追いついていない。

今、私は評価されたくない。「いい」も「わるい」も言われたくない。
これを分かち合って欲しいけど、中途半端に伝えたところで半端に気を使わせてしまうだけになるのは目に見えている。

それを気にするのも、正直少しうんざりしている。
人との会話という大きなくくりで嫌になっているところがある。

だけど人を嫌いになりたくないし、対話を嫌いになりたくない。

だから、評価というものを、恐れる対象ではなくて
同居人みたいに扱いたい。
そういうのもあるね、とゆるく受け入れながら、どうしても嫌なものは試行錯誤して解釈して、あとは自分のペースで気楽に生きていたい。

いい、わるいは感性としてとても素直なものだと思う。
だから評価は悪いことではない。
自分に向けられる評価を、私が愛する「社会への理解」に使えるようになりたい。
あなたが「いいね」と思う文脈がある。
あの人が「それはだめだね」と思う文脈がある。
それを理解して、「私はこうしたい」で生きられるようにする。

自分にも相手にも、愛を。
愛するために、理解を。
「愛」って言葉の広さに甘えている気もするけど、
人を愛したくて、その大きな障壁となっている他者と相互理解できない恐れを乗り越えるために、自分は成長したいんだなと思った。

今抱いている自信のなさは、経験値で消えていく気がする。
でも誰に何を言われてもやっぱり私はこれが大事だな、と思えた経験値。
そのためにも、行動と思考を止めず、私の大事なことを言語化し続けようと思う。

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