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事業理念に込めた「育む」について


前置

本年も宜しくお願いします。まずは少し長い前置きをします。

私の中でのルーティーンの一つが年明けに産まれ育った町を歩くことです。まさに本日歩いてきました。

たまーに昔の友人と会ったら、
「最初会った時大丈夫かこいつと思ったでー」と言われることがあります。

今思い返すと納得もいきます。
「生きる事に意味ある?」
「生きていて楽しい事ってある?」
と真顔で言ってた学生時代でした。笑

そりゃ、友達も「こいつ大丈夫か?」と思いますよね。

自分の中でもあまり意識に上がってこないのですが、今思い返すと無意識で、普通に、言葉として表出されていたのだと思います。

30代中ごろになり、幼少期の原体験を少しずつ他人に伝えることができました。それまでは他人に伝えることなんぞできませんでした。その理由としては「伝えられた相手は困るだろう」「その後の空気感重くなるだろう」と空気感を考えずっと蓋をしていたと思います。

とある日、稲美町で事業を営んでいるM社長と二人で呑む機会がありました。相手方が結構オープンに話て下さった経緯もあったと思いますが、人前で初めてポロっと自分の原体験を語ることができました。

なぜこのタイミングで、なぜ今なのか、思い返しても自分の中でも不思議なのですが、「この方なら聞いて下さるだろう」という安心感があったのかもしれません。

その時、過去に感じたことのない感覚というか、気分になりました。

何より自分らしくなれた瞬間を感じました。

私は人の目を見て話すことができません。
私は他人に自分の話をすることが苦手です。
私は人間関係を築くのが苦手です。

この時は何も気にすることなく、自分の話をすることができ、聞いて下さる相手がいることに安心感というものが産まれたのだと思います。

なので少しずつ信頼できる方には自分のことをオープンにしていこうと行動する気持ちが沸きました。自分の心と身体の安寧のため。

そんな幼少期を過ごした町を年明けに歩く理由は、現在進行形で行わせていただいているバリオプロジェクトの「自分の中」の原点だからです。

起源


現在株式会社アバンサールでバリオというプロジェクトをさせていただいております。バリオとは「近所」という意味があり、近所にお住まいのこどもからご高齢の方々の「心豊かなふれあいを育む」を事業理念に掲げて様々な事業・活動・イベントを行って参りました。

当初は自分で起業をし、このような事業を展開できないか模索をしていました。それは上段で述べたように、自分が心豊かな幼少期を過ごしていなかったからです。

家でも学校でもずっと生きづらさを感じていました。家のことはさておき、学校では集団に馴染めない性質だったんだと、今は理解できます。

なので親とも友達ともあまり関りを持とうとしていなかったと思います。

そんな中近所の駄菓子屋?コンビニ?ショップ?何と呼べばいいか分かりませんが、とにかくお菓子を買いにいっていたお店のおばちゃんとはよく喋っていました。

「今日学校でこんなことがあってん」
「今日テストでいい点とってん」

など他愛もない話を自然としていたと思います。ここだけが自分らしくいれる場所と勝手に思い込んでいたのでしょう。あまり自分らしくなどという曖昧な表現はしたくないのですが、曖昧な表現をしたくなるほど不思議な場所でした。

特に夢や目標などはなかったのですが、「昔よく行っていたおばちゃんのお店のような場所を作りたいな」と思ったのが一番最初の夢、いや目標でした。ちなみに、一番最初の夢はFBIになりたいでした。

そんな事業を簡単に作れるはずもなく進路の時がきました。先生に「何になりたいん?」と質問され、咄嗟にでてきたのが野球部の時に肩の怪我を治してくれた体験でした。なので「スポーツトレーナーになりたい」と答えたら、「理学療法士」を勧めて下さいました。

理学療法士?正直この時は、合コンでモテそうとしか思っていまでんした。さらに調べてみると白衣を着れて初任給30万円という記事を見ました。その情報だけで理学療法士(その時は本気でスポーツトレーナーと思っていました)になろうと思いましたが、偏差値がどうにも足りない・・・。

半年間だけ本気で勉強をして何とか淡路島にある専門学校の2次試験に合格することができました。

入学するとそれまでの勉強とは違い、筋肉や生理学など生活に関わる勉強が多く、比較的勉強は楽しかったです。なので専門学校の時には人生で初めて成績上位という経験もできました。

しかし勉強をしても、実習に行っても、違和感しかありませんでした。自分は本来「スポーツトレーナー」になりたいといと考えていました。それも質問に咄嗟に答えただけで、本来は「昔よく行っていたおばちゃんのお店のような場所を作りたい」が根底にあります。

ある日の特別養護老人ホーム実習にて衝撃的な体験をしました。そこの施設では今でいうこども食堂的なことをされていました。近所のこども達とおじいちゃん・おばあちゃんが楽しそうにしています。

「あーいいなーこの光景」と強く想いました。

レポートを書かないといけないので、近くにいたこどもにインタビューをしました。私からは「なんでここに来てるん?」と今思えばなんちゅうことを聞いてるんや!!と思います。

「ここに来ると皆オレの話を聞いてくれるし、なんか楽しいねん」と。

確かこのような返答をしていました。返答内容は正確に覚えていませんが、心の中に雷が落ちたような衝撃が走ったのは今でも覚えています。

この時、地域のこどもからご高齢の方々が集まれる場所を絶対作ろうと決心しました。

経緯

自分で言うのも恥ずかしいですが専門学校時代の成績は優秀でした。

なので普通に卒業してまずは就職しようと考えていましたが、まさかの実習で不合格となり留年することになりました。

当時は誰が行っても落ちると言われていた実習地に配属されたので、もしかしたら自分も落ちて留年になるかも?とは頭の片隅にあったので、留年したらどう過ごすか考えていた時期もあしました。結局は本当に留年しました。

頑張ってきた分少し残念な気持ちもありましたが、それよりも普通に就職していたら経験できないことが経験できるチャンスだと思いました。まず一度はやってみたかったバーテンダーの定員になろうと思い面接を申し込むと、そこはキャバクラでした。笑

キャバクラは不合格でしたが、洋食屋の厨房、カフェのホール、工場の中の作業員、引っ越し業者、プロ野球の裏方の仕事など色々な仕事をしました。その中で「たくさんの人の話を聞きなさい」と教えて頂きました。

なのでこのまま留年が終わり就職してもあれだなと思い、自分の人生では選択肢にも挙がらなかった神戸大学への編入を決めました。理由は同じ教育を受けている中でも、専門学校と国立大学で何が違うんだろうという興味のみです。

その興味だけで一年間で溜めたアルバイト代を編入代に注ぎ込ました。

この期間はどちらかというとビジネスの勉強をしていたと思います。どうすれば自分の目標を事業に転換できるのか?これまた色んな方のお話を聞き、まずはちゃんと就職をしてお金を溜めようと決意しました。

発足

一番最初に正職員として入職したのは地元の脳神経外科病院でした。

目指していたのではなく、4つほど面接に落ち続けていたので、先生が見かねて紹介して下さいました。

ご縁というものは不思議なもので、この病院で勤めて指導して下さった上司の旦那さんが会社を立ち上げるというお話をきき、お声をかけて下さいました。当時の私は正直、「設立したての会社で学べる環境」に魅力を感じ転職を決意しました。

3年間は何も言わず、馬車馬のように働くと決めて無我夢中で働いていました。入職して4-5年ほど経ち、とある会議で社長と少しもめました。

もめたと言っても完全に私の無礼さが原因です。

社長から「会議が終わったら個室に来て」と言われました。この時、「あー個室で罵倒されるんだろうな」と思い、もしそうなったら退職をして自分で会社を立ち上げようと決意していました。

そんな決意をしていたのにも関わらず、社長は自分自身の非を認め私に対して「オレの悪いところがあったら言って。半年かけて直すから」と言って下さいました。

おー。えっ、そんな事を部下に言えるってどんなけ器が大きいんや。と思ったのが率直な感想でした。それと同時に自分の器の小ささを無様に感じました。その時の会話の流れで「将来どんなことがしたいん?」と社長に聞かれ、「こどもからご高齢の方が集まれるような場所を作りたいんです」と返答したら「えーやん。それうちでやったらえーやん」。

これがアバンサールでのバリオプロジェクト発足の経緯です。

正直当時は半信半疑でした・・。

言ってもリップサービスかな?と思っていた部分もあったので5年働いて動かなかったら自分で立ち上げようと考えていました。

ですが、社長が事業再構築補助金を通して下さり、デイサービスの中に厨房ができ、新しい事務所が設立されました。

この経緯もあり私の人生の恩人は社長なんです。これは事業をさせて下さっているからではありません。

社長は「あーせー、こーせー」とは言わない方で、色々行動して失敗して学べというスタイルの方だと思っています。なのでたくさんの投資をしていただき失敗するという経験させていただきました。失敗から学ぶことがどれほど財産か。

人間関係の構築が下手くその私を見捨てず向き合って下さいました。

そのお陰で私の人生は心豊かなものになっています。

なので私は地域のためにプロジェクトをしているのではなく、会社のためにプロジェクトを行っています。これが私がよくいう「会社のため」というやつです。

どうなったら会社のためのなるのか?

今は心配と迷惑しかかけていません。計画された利益をきちんと出し続けることはマナーの範疇だと思っています。それよりも社長が心の底から「バリオに投資をして良かった」と思ってもらえたら、一つの恩返しになるのかと勝手に思って行動しております。

事業理念

前置きが長すぎました。ここから事業理念についてです。

バリオプロジェクトの事業理念は、「心豊かなふれあいを育む」です。

「心豊かな」は株式会社アバンサールの経営理念である、「心豊かな自律した社会の実現」から引用させていただいています。

この理念が私には刺さったので、この部分は絶対引用すると決めていました。

次の「ふれあい」ですが、一番最初に浮かんだ案は「交流」という言葉でした。ですが「交流」という言葉はしっくりきませんでした。

地域交流、交流会などでよく目にする言葉ですが、そこには意図が含まれ、目的化されていると感じたからです。私自身が幼少期に感じたものは、たまたまお菓子を買う目的で行ったお店が「自分らしく」居れた場所であり、それが心地よかったのです。

この感覚を表現したいと想いでてきた言葉が「ふれあい」です。

「ふれあい」という言葉には何か情緒的なものを感じるんです。

手と手とが触れる、
手と身体が触れる、
目と目が合う、
たまたま同じ空間にいて互いに何か感じ合っている、
一言挨拶を交わして産まれる感情、

私の中では全て「ふれあい」に入ります。

言葉にできないけど、何か心がほっこりする他者との関わり合いを「ふれあい」のイメージとしています。

そして最後の「育む」。

これも当初の案ではありませんでした。

当初の案は「心豊かなふれあいを」でした。

述語の部分はそれぞれが感じた部分を想起していただければいいかなと想っていましたが、それでは事業を作る上で無責任だなと感じました。

ですが時間が経てど、その先の言葉が想い浮かびませんでした。

例えば一つの案に「創造する」もありました。ですが、申し訳ないですがこれは即却下しました。

我々が想う心豊かなふれあいというものは、創造するものではないというか、創造しようがありません。我々が創造できるのは環境のみです。

その環境の中でお一人でもふれあいを通して心の豊かさを感じていただければ幸いです。

ある日ふと「育む」という言葉が脳裏をよぎりました。

調べてみると「育む」という言葉は、親鳥が羽でひなを包む姿に由来し、大切に優しく育てる意味として使われることを知りました。この瞬間にこれだ!!と想い、事業理念を「心豊かなふれあいを育む」としました。

この時は直感的に決めたので、なぜ「育む」にしたのかを深く考えてきませんでした。なので、本日産まれた町を歩きながら考えてみました。

助け合い、支え合いという言葉を聞くと、多くの方は「助ける」「支える」の側を想起しませんか?私は医療従事者の影響もあるかもしれませんが、「助ける」「支える」が先に想起されます。

「助けられた」「支えられた」時に、「助ける」「支える」の意味が自分事として理解できるんだなと感じました。

ふれあいは漢字で書くと「触れ合い」です。「ふれられた」時に感じる暖かみがあり、それが優しさとなり「ふれる」側となる。

そんな暖かい優しさが連鎖して欲しい。

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