もちづきさんを愛したい

 生活習慣病、宗教的禁忌、摂食障害、飢餓、菜食主義やそれに対する反感、フードポルノ、汚染、農薬――食べることは常に問題を孕まされている。一口ひとくちにだから、私たちは言い訳を強いられる。いや、その無数の言い訳さえ強く抑圧されているだろうか。

 オズワルド・ヂ・アンドラーヂはその「食人宣言」(Manifesto Anthropofago)において、カニバルというスティグマを反転し、彼らの文学的スピリットを高らかに宣言した。カニバリストは憎しみから敵を食らうのではない、認め、愛し、敬う者を食べることで自らを変容させるのだと(※)。

 アンドラーヂのいうカニバリズムは畢竟、文化的生産の比喩にすぎない。相手が人であれなんであれ、「命をいただく」というクリシェとはうらはら(※)、実際になにかを食べるときに相手の生、あるいはその種や産地や品種にではなく眼の前のその肉の持ち主に、その葉をはやした株に固有のいのちを見ていることなど決してないだろう。いや、そんな感覚を求めて人は狩猟にのめり込むのだろうか(※)。

 Threadsでこんな投稿を見た。

https://www.threads.net/@nakamura_asa/post/C7OtuLvPndt

 ここに描き出されていることはふたつ、ある寿命を縮める食べ物がもたらす快と、それが生ぜしめる(より正確に言えば、その食べ物が寿命を縮めるという認識が増幅させる)「生」の感覚である。この投稿には感動を覚える。多くの人がそうだろう。なぜなら多くの人は死をもたらしかねない種類の強烈な快を、日常的に味わうことなどできないからだ。

 一方で、この、快から「生」への飛躍が私にはよく分からない。なにを害してもほしいものがある、それを得る。それが自らを変容させ創造の源泉になるといった、言ってしまえば向社会的な循環ではなく、おそらく確実に健康を損ねることに近づくものを、それでも食う、というときに得られるのは快だろう。それは分かる。

 けれども「生」、あるいは「いのち」。快楽のなかにもスリルのなかにも痛みのなかにも血のなかにも、「いのち」なんてこれっぽっちも感じられない。だから疑ってしまう。快をもたらしているのは生なんかでなく単に物質であり、生だの命だのというのは古ぼけた文学的トロープにすぎないのではないかと。それともなにか「生」なるものが本当に己を蝕まなければ辿り着けない享楽をもたらすのか?

 そこでドカ食い気絶である。空腹状態で糖分を多く含んだ食品を多量に摂取して血糖値を急上昇させたのち、インスリン分泌による血糖値の急落によりぶっ倒れることを指す。当然体に悪い。血管とかにダメージを与えるようだ。そして当然生産性が下がるため、この現象は一般に嫌われており、血糖値を急に上げない食べ物、食べ方がしばしば推奨される。しかしこの現象を愛し楽しんでいる人たち(血糖値のピークがよいのか気絶がよいのか分からないのだが)が最近プレゼンスを増し、連載が始まったのが、記憶に新しいだろう『ドカ食いダイスキ! もちづきさん』だった。この漫画は、ドカ食い気絶と呼ばれる行動を愛好するコミュニティを背景としているらしく、そこで育まれた語彙が散りばめられている。

 実際、ドカ食い気絶愛好者がどんな心持ちでそれを行うのかよく知らない。かつて(今も?)「ドカ食い」と言えば「やけ食い」とほとんど同義であり、ストレス解消の色が濃い。だからそれを趣味として捉えることはひとつのコーピングなのかもしれない。脳内物質の奴隷であることから解放されるためには意味を、綾を、見出していくしかない。そのとき、これに「生」を感じるのもありなのか? でもそれで同じものが得られるという気はしない。

 ドカ食い気絶と似て非なるところに過食嘔吐がある。これを行う者たちもネット上で寄り集まり独自の語彙を育んでいる。濯ぐとか、底とか。吐くのは簡単ではないのだ。まして食べたもの全部を出すことなんて。それでホースを使う人もいる。摂食障害ボーダーラインである私はこの人たちの心情を代弁しようとはしたくない、しかし過食するときの自分がある典型的な像からかけ離れているとも思わない。

 『もちづきさん』に話を戻せば、これは表向き、摂食障害として描かれてはいない(※)。あくまでドカ食い気絶であり、グルメ漫画である以上、調理のプロセスや食材といったものが仔細に描かれる(そしてそれが大して美味しそうではないことが反響を呼んでいるようだ)。「死を意識」といったモノローグが挿入され、アンコントローラブルなドカ食いへの衝動が描かれる一方で、ドカ食い気絶は趣味性を持った、つまりギリギリのところで「味わう」ことのできる行為として描かれる。

 自分のことを話せば、吐きやすさを基準に過食するものを選んだことまではない。ただ、言葉にしようがない衝動(でもそれは同時に惰性のように穏やかでもある)に駆られて吐くか翌朝まで再起不能になるしかない量の食べ物を食べるとき、味は味として認識されても、「うまい」「まずい」の評価が消え失せる。それでもどこか、「あれも食べたいし、これも食べたい」というグルメの残骸がいて手を止めさせない。島田雅彦『自由死刑』の、限界を超えて食べるというまさにそのことで自殺した美食家の男が、どこか理想としてチラついているような気も、後から考えればする。

 だから自分をボーダーラインと言うのだけれど、そこから見たときにもちづきさんというキャラクターを、いや、『もちづきさん』という作品を、強く肯定したくてたまらなくなるのだ。

第1話より

 第三者には異様に映る「スッ…」のあと、味や調理法の議論へとコマは移っていく。これを見たとき、私は「スッ…」「じっ」だけが本当で、「自己嫌悪や死にたさやこれで最後にしたさやどうせなにを決意してもやめられないことやせめて体裁のいい人間の食い物を作ってこれたのだから自分はまだ大丈夫だと信じようとする気持ちやそれでも抑えられない死にたさ」を覆い隠すために味がどうの、調理法がどうのという話題が駆けつけてくるのだという意味のことをXに書いた。

 虚ろな目をした「スッ…」のなかに、そんな「本当」が籠もっていることは、今も疑っていない。しかし、調理法や味付けに工夫をこらしその成果をどんな形であれ楽しむこと、それがグルメ漫画の形式的制約を超えて、もちづきさんの行為にとって欠かせない重要性を持つかもしれないとも思い始めている。

 ある人々にとって、自分の身体を含めた食べることの全体が、恐るべきカロリーや体重といった数値に還元されるとき、その人の生活は著しく困難になる。もちづきさんはそうなりかねない様子を見せる一方で、血糖値の急上昇がもたらすものとして記述される体内感覚を目的としている。そしてそれに至る道のりは、ときにショートカット(美味しくないのは分かっているけど待たずに食べる方法を取る)を求めることがあっても、ただ一直線の回路なのではない。

 私たちは「命」なんか食べてはいない。端的に身体に作用する物質を注射されているのでもない。もちづきさんはすんでのところで還元を拒む。もちづきさんは食事をしている。もちづきさんは食事をしている。私はそう思いたい。摂食障害に陥ることが「ふつうに食べられなくなる」と言われるとき、いったいどこの誰がどう「ふつうに」食べているのだと思う。

 どんな風にであれ望むように食べること、食べることについて言い訳をし続けることは困難だ。『もちづきさん』という作品に表れているのはまさにその苦闘に他ならない。もちづきさんを肯定する。

(2024.5.26)


※ このマニフェストは、原始人と文明人、オリジナルとコピーといったう二項対立を逆手に取り、食人族という古く根強いステレオタイプをシェイクスピアをパロディしながら再生する、一篇の詩として優れてパフォーマティブな価値を持つと考えるが、その理論的有効性についてはいくらかの疑問が呈されてはいる。最近どこかで名前を見たので、特集かなにか組まれたのかもしれない。

※ 屠殺や収穫といった、食物の生産を淡々と追ったドキュメンタリー映画『いのちの食べかた』の原題もUnser Taglich Brotであり、そこで用いられる換喩は生命ではなく素っ気なくも神聖なパンである。食べ物と「命」を関連付けるのが日本的な認識であるなら、それが成立した経緯は気になる。

※ 私の狩猟観は村上龍『愛と幻想のファシズム』、工藤顕太「模倣の性愛――ユカギールと精神分析」、そして石川竜一の『いのちのうちがわ』のみによって形成されている。もう少し広く考えたり体験したりしたほうがいいのかもしれない。

※ あまり病理化したくないが、仕方なしに「摂食障害」の語を使っている。

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