ポン・ジュノ『スノーピアサー』

 あんまり映画を観ていないのに他の映画と比較するのも気が引けるけれど、ニール・ブロムカンプの『エリジウム』と同じ年なんだあと思った。「なんだなあ」じゃないんだけど、この2つはどちらも階級闘争を戯画的にというか、極めて分かりやすく物語仕立てに扱っていて、劣悪な環境に暮らす主人公が監視の目をかいくぐりながら富を牛耳っている支配階層をやっつけることを目指すところから始まる。

 『エリジウム』は『第九地区』に比べると脚本の見劣り振りが激しい。余命幾ばくもないヒーローがうおーって革命してギリギリのところで自己犠牲を払った結果みんなが助かってユートピア~みたいな話、盛り上がりこそすれ面白いなんてことがあるだろうか。

 ……という記憶があり、その上階級闘争ものって余りにも誰もが革命を起こす側に同一化できすぎてしまうので、私みたいな私学でお歌を歌ってた側の人間がそれでいいんだろうかとかも思うので、『スノーピアサー』も最初はモヤモヤしていた。

 地球温暖化を食い止めるための物質を散布したら地球全体が凍り付いてしまい、生物は絶滅。その前に出来ていた、永久機関を組み込んだっぽい地球一週鉄道のチケットを持っていた人だけが死を免れ、命からがら乗り込んだ無賃乗客は列車の最後尾に押し込められている。その人たちが革命をもくろみ、先頭車両の権力者を殺して平等を実現するために電車をズドーンと駆け抜けていく。

 (中略)ところが大爆発アーンド大雪崩が起こって電車はすっころげ、透視能力を持つ少女(中盤以降特に活かされなかった設定)と幼い子供を残してみんな死ぬ(多分)。この二人も近いうちに死ぬだろう。しかし、ラストは絶滅したと思われていた北極熊が姿を現し、なんとなく希望っぽい感じで映画は終わる。

 革命の達成でもなければ、人類の外敵に対する勝利でもない、明るい音楽とともに最終兵器が作動して世界=人類の終わりが訪れるのでもない。この結末が希望、あるいは明るさとともに描かれるのは、それが人類にとってではなく地球の(というと意味不明だけど)、あるいは人間をちょこっとだけ含んだ生物一般にとっての希望だからだろう。こういうビジョンがハッピーエンドとして語られるというのは、けっこうすごいんじゃないかと思った次第です。

 たまらないシーンもあった。雪に閉ざされた地球とか煤だらけの最後尾とかから革命を起こすにあたっていつかは血を見ることになるだろうと思いながら進むのだが、最初に出て来る血というのが魚の血であるところ。それまでに行われた残酷な処罰も極度に冷たい外気を用いて行われるので、血は出ないのだ。しかし、支配者側の兵士が最初の戦闘開始の前に淡水魚っぽいぶよっとした魚の腹を切り裂くという純度100%の演出を行う。あまりにも無意味でかっこいいそのシーンは、その"演出である性"みたいなのをもって(終盤になると特に)我々観客に自らの位置についての問いを突きつけてくると思う。

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