おーい、でてこーい

 小笠原鳥類は万葉集にある「葉非左」なる「訓義未詳」の語、「もとの万葉仮名をどう読んでよいかわかっていないという不気味」に触れている(126)。そしてその不気味さに詩に特有の力を見出す。

詩は、時間が経過すると、時代の言語が変化していき、書いた人やその知人が亡くなっていき、関連する多くの情報が忘れられ消えていくので、徐々に不気味な闇になっていくだろう。不気味な強い力を持つ古典の詩歌と比べると、生きている詩人により新しい詩は不利である。でも、なんとかして、古典に負けない不気味なわけのわからない詩を濃厚に書かなければならないのである。そうでなければ万葉集を読んでいればよい。
『小笠原鳥類詩集 現代詩文庫222』思潮社、2016年。129頁。

 言語学の授業に出ていたとき、われわれのこの言語において意味を持たない文字の並びを見せられ、先生はそれがutteranceにはならないと言った。

 幽霊文字はこれと反対方向に怖い。典拠がないのに文字コードの割り振られた文字。

 カフカの短編にオドラデクなる謎の存在が登場する。

それがこれからどうなることだろう、と私は自分にたずねてみるのだが、なんの回答も出てはこない。いったい、死ぬことがあるのだろうか。死ぬものはみな、あらかじめ一種の目的、一種の活動というものをもっていたからこそ、それで身をすりへらして死んでいくのだ。このことはオドラデクにはあてはまらない。それならいつか、たとえば私の子供たちや子孫たちの前に、より糸をうしろにひきずりながら階段からころげ落ちていくようなことになるのだろうか。それはだれにだって害は及ぼさないようだ。だが、私が死んでもそれが生き残るだろうと考えただけで、私の胸はほとんど痛むくらいだ。
「家長の心配」https://www.aozora.gr.jp/cards/001235/files/49858_41918.html

 こんな意味や音の虚空に向かって「おーい、でてこーい」と叫んでは、意味、らしきものを放り込んでいる。穴は怖い。

 それに比べるとちりとてちんやフェレンゲルシュターデン現象はかわいげがある。


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