宮崎郁子「ウィーン世紀末 夢の影」@ギャラリーあしやシューレ
人形作家、宮崎郁子氏がシーレ(の絵)と出会ったのが1995年だという。偶然にも私が産まれたのと同じ年だ。氏はそれ以来、シーレへのオマージュ作品を造り続けている。
たまさかの符号に喜んで自分のことを話してしまうと、私がシーレに出会ったのは兵庫県立美術館のミュージアムショップでのことだ。美術館に行くようになって間もない高校生の頃、横たわる少女を描いたドローイングのポストカードを手にしたのだった。県美はシーレのドローイングを確か何点か所蔵していてコレクション展ではたまに観ることが出来るのだが、そういうことも知らないまま無心にその絵を描いた人物について調べたり作品集を求めたりした。それなりに視覚芸術を好きになり始めていたが、こんな風にまざまざと描かれた人の体を見たことがなかった。いまだに彼の描いた人間の、あるいは人間のような姿をした向日葵のどこに惹かれているのかよく分からないが、大学にいる間に結局二度ウィーンを訪れた。こっそりと彼の絵を題材に短歌を作ったこともある。もしかすると、シーレに魅了された者はそれぞれにそういう経験を持っているのかもしれない。
宮崎氏が造り続けている人形は、シーレの描く人物を一貫してモデルにしながら、公式サイトを見る限り少しずつテクスチャを変化させているのだが、キャプションを付されないまま人の居ないギャラリーに並んだ人形たちは何かそういった作家性から離れた空間をつくっていた。展示。たしかにそれは展示であって、売られているわけでも私蔵されているわけでもない紛うことなき作品群であるのだが、同時にシーレのいつ頃のどの作品が下敷きになっているのか確信を持って思い出すことが出来ない、もちろんいつそれらの人形が制作されたのかも分からなければ、原画と立体との間にどの程度、どのような異同があるのかも分からない。その展示のしかたには、一人の作家が作り上げた作品、というのではなくて、ある人がある人に私淑し、自らのなかで対象を深化させるときの混濁した状態が見られたのかもしれない。
シーレの絵は、わたしが上手く語る術を持たないということを差し引いても、身体に直に働きかけるところがある。そういう意味での官能性を、宮崎氏は人形特有の方法で再現しているように見える。瞬く間に捉えられた人間が、おそらくそれなりの時間をかけて奥行きを得たのだとして。とりわけ反対方向に脚を向け合って横たわるシーレと少女の人形には、もしかすると単にわたしの嗜好のはなしになってしまうのかもしれないが、原画を「呆然とする」と総括するならば、それとはまるで異なる息苦しくなるような昂揚を与えられた。
展示は10月19日まで。芦屋にお越しの向きは是非。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?