村松桂 Natura naturans

 先日観てきたのは、つやま自然のふしぎ館で催されている村松桂氏の写真展だ。そこは世界中の動物の標本が集められた博物館だから、もちろん写真のほかに剥製や化石や骨格標本も同時に目にすることになる。剥製は生物の標本でありながら技術の粋でもあって、何十年も前のものが劣化せずに保たれているのだという。そうしたものたちは、保存と再現のあわいで生物を上演する。威嚇したり獲物に食らいついたりという動きを見せるかと思えば、ただ静かに佇みもする。その生きていたものたちは私たちに覗かれうるガラス玉の瞳を嵌めている。

 人は動物に見返されたいのかもしれないと思う。動物園で子供たちが必死にガラスを叩き、生き物の反応を得ようとするようにわたしたちも、ほんとうは見つめてほしいのだと。動物園でも野生でも、飼育下のペットであっても動物は、ふつう視線を逸らすから。ところが剥製は生き物に真正面から見据えられたいという欲望を叶えてくれる。たとえその目の中に見えるのが自らの投影であり、見たいものでしかないとしても。

 このほど展示されている作品は主に二種類、剥製の瞳のクロースアップにいくぶん抽象的な風景が重ねられたものと、生き物の頭部に植物が重ねられたもの。多重露光で写し込まれているのは、その動物が生息する地域の景色と、そこに分布する植物のイメージだ。とはいえ、被写体となったふしぎ館の剥製たちが野生だったのかは分からないし、その景色は絵葉書に描かれたものだという。

 ときおりひらめく薄い布に刷られた、かつて触れたことのないかもしれない光景を写し込んだ義眼の中に撮影者の姿は無論いない。わたしが望んでいたのかもしれない眼差しのやり取りは頓挫し、同時に私の後ろに異なる空間が広がっていく。見るのでも見られるのでもなく、その瞳は見せるのかもしれなかった。

 植物に包まれ油彩のように額装された生き物たちもまた、神秘的な、神話的な甦り方をしていた。動かないものたちどうしが形態によって志向性を孕むような、まるで違うのにどこかエッシャーのメタモルフォーゼのような動きを秘めていた。何かを失い何かを与えられた剥製は生き物であったことを実に様々に演じうるのだった。

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