「平成美術 うたかたと瓦礫(デブリ)」展

 日本の大きな展示では珍しく、と言っていいと思うけれど、キュレーターとキュレーション意図が明確にされているから、この展覧会について何か言おうと思ったらまずは個々の作品ではなくその全体について語らなければならないだろうと思うと気が重い、というか何も言えない。平成7年生まれの自分がいかにヨノナカについて無意識に過ごしてきたのかを考え、その姿の滑稽さに自己憐憫を感じて、巨大な年表である平成の壁を見上げながら涙が出た。

 ここに展示される作品は、平成につくられたものでありながら、再編され、移植されることで新たな文脈を獲得している。その最たるものは「突然、目の前がひらけて」という、武蔵野美術大学と朝鮮大学校が合同で展示を行い、両校の境界である塀にかけられた橋だろう。それがこの区切られていない展示会場の中央に置かれ、来館者はそれを渡ることができる。

 このような変化は、国府理の水中エンジンが構想された形では展示できないこと、不可能や不在に問いや批評性を見出す、「ない」ために(だけで?)「言える」という上手く言えない危うさを孕んだ文脈化とは一線を画するのではないか。あまりに単純に解釈されうる架橋という行為への注釈になりえているのではないかと思った。

 そして、本当に見られてよかったのがクシノテラスの試みだった。精神障害にフォーカスしたデュビュッフェのアール・ブリュットではなく、正規の美術教育外で制作されたという意味でのアウトサイダーアートを扱うアートスペースで、ここに集まった作品や作家は、アウトサイダーであることが必ずしも社会との隔絶や内面的な純粋芸術を意味しないことと同時に、市場や批評やバズに乗って流通しようと端からしていないものの凄み(馬鹿みたいな言い方だけど)を伝える。

 清掃員をしているガタロさんが毎日短い日記のような言葉を添えてスケッチした無数の雑巾の絵(文化や芸術も資本に組み込んでいく収奪の構造を転覆するためにやっているのだという)という驚くほどプロレタリア的な作品を見ていると無性に元気が湧いてきたのでした。

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