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Shazam、してますか?――小松千倫《K1》の物語

2022年4月16日~6月26日に開催された「京芸 transmit program 2022」で展示された小松千倫《K1》について書きました。

 靴を脱ぐことはある特別な親密さを作り出す。裸足は作品に触れないまでも、ひとつの分厚い媒介を外すから。ここ一年くらいのことを思い出すだけでも、KYOTOGRAPHIEのいくつかの会場、ピピロッティ・リスト展、それからブライアン・イーノ展が私たちの靴を脱がせた。

 歴史的建造物で靴を脱ぐことと近代的な美術館施設においてそうすることとの違いはあれど、靴下一枚で床やカーペットに触れることで私たちが一歩近づくのはベッドルームの親密さにほかならない。そのうえ今日はあの、人を駄目にすると名高いビーズクッションが待ち受けている。監視員も室内にはいない。眠りに落ちたって構わないわけだ。

 でも、眠ってしまう前に少し待とう。その親密さが周到に用意されたものであるなら、うっかり身を委ねてしまうことは少し危ない。

 暗い展示室で迎えるのは、実はiOSにもUnicodeにも存在しない二つのキメラ絵文字だ。垂れ眉のつるっとした丸顔(😯)は両手で口を覆う。この動作をしているのは本来目を丸くした「言わざる」のサルだ(🙊)。その右側にはお馴染み紫色の悪魔(😈)の輪郭をしているが、眉は左と同じ形、目からは涙を流し(😭)、口はひんまがり(😕)両手は目の横に当てられた顔。少し位置は違うけれども、この手の位置は左の絵文字と呼応して、聞かざるのサル(🙉)を想起させる。キメラというよりサンプリングだろうか。あるいは、紛い物、寄せ集めの材料で誤魔化したときの嘘、みたいにも見える。

 私たちはそういう、薄ぼんやりとしたよく見えない、だがたまに派手に発光する紛い物を観察する。いくつかのオブジェクトを光らせるためのコードはごちゃごちゃと床に垂れている。流れ星や月の形は小学生が切り紙で作ったような感じだ。床に落ちたラメ、判読しづらいアルファベットの落書き――

 突然音が流れる。びっくりした。どこかにセンサーが仕込まれてでもいるのかと思ったが、幸いここはお化け屋敷ではない。音に関する体験は、静かなときに、音が流れているとき、台詞が流れているときに入室した観客のあいだでラディカルに分岐している。「ナラティブの分散」。まさに作者の意図するところ。

 音楽、台詞、効果音。キラキラキラキラともシャララララララーンとも書けるような音。記憶をかいくぐっていくような断片。クイーンの曲が混じっていたと思う。We Are the Championsだったかしら。他は知らない曲。インスタレーションに迷い込んだ観客はShazamするものだろうか。批評家は? クラブの観客は?

 ともあれShazamで検索できないものについて。展示作品を説明したリーフレットのおかげで鑑賞者はその部屋に流れる男女のナレーションの文字起こしを一から十まで目で追うことができる。むろんそれは一つの合理的配慮である(難聴やろうの観客も当然訪れるだろうから)。が、それだけなら映画のバリアフリー字幕のように、曲調の描写や歌詞といったものを付けてくれてもいい。ここでもまた、私たちは作者の意図に巻き込まれていると考えなければならない。

 男女二人の声が、同じ場面の同じ言葉を読んでいる。「わたし」と「あなた」という人称が互いに互いを指しているような作り。そのこともあって、余計に自他が未分化な感じを受ける。他者がそのまま自分のことを語るようなナルシシズム。ナラティブが夜の場面であることは展示会場の暗さと呼応する。夜、夢。「この世界で三角形の内角の合計は180度」「わたしを刺してくる期待の地平」。この世界を別の可能な世界のもとに相対化する。受容理論によれば、読者は一定の期待の地平にもとづいてテクストを読む。「わたし」と「あなた」は物語内存在である。だが。「物語はどこでも展開する/わたしはそれに抵抗する」。

 ナレーションの各部分の間隔があまりに離れているので、その場ではどこを始まり、終わりと言うことはできないが、紙の上ではどうしてもそうなる。最後はこうだ。

its logic
its obviously , completely , logically logic.
its love.
its logically , completely love
and im thinking about you
and night
and flesh raw meat
and strawberry

 “it’s”や”i’m”であるべき箇所のアポストロフィーが省略されることで二つの単語が癒着する。logically, absolutely, completely,といった冗長な断言は、そう執拗に言わなければならないほど言い手には確信がないことを露呈する。そして語り手は「あなたについて、夜について、新鮮な生肉について、いちごについて考えている」と並べ、物語が一応、閉じられる。明白な、誰にでも追跡可能な論理から、眠る寸前の散漫な連想へと落ちていくような離脱。

 語り手が抵抗する物語。それは目覚め、出生、去勢、象徴的な秩序、物語、父と母と子の、神話的な物語ではないか。「わたし」は言葉が意味になる前の、不安なき一体性を志向するのではないか。とすれば「知り合ったばかりの3人」とは、まさに家族の物語の開始地点であるといってよい。「わたし」はそれに退屈をおぼえ、二人の関係に帰ろうとする。

 しかし出口で観客を出迎えるのは”That’s God’s creation/It’s absolutely amazing to look at it”という言葉だ。物語は主体の成長にではなく、観客がその外にいることを思い出させることによって閉じる。神である創造者、作り物の世界の物語。室内に置かれたオブジェクトが紛い物めいていたことを思い出してもいい。それを見ることは全く素晴らしい、と言われる。中にいるのではなく、見ているのだ。「わたし」が抵抗するナラティブの外へと誘い出す。そのために作家は物語を作りかけ、観客を招き入れ、そして追い出した。

 Shazamしていたら、別様の解釈をしていただろうか。いや、同じように作者の意図のなかに呼び出され、そして追い出されていただろう。



このレビューは浄土複合ライティングスクールの課題として執筆したものです。同じく「京芸transmit program 2022」で展示された阪本結《Landscapes》についてのレビューは浄土複合のnoteに掲載していただいています。
https://note.com/jdfkg_school/n/n3cf312cb5e4f


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