御中虫『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』
質問箱で教えていただいた御中虫さんの『おまへの倫理崩すためなら何度<なんぼ>でも車椅子奪ふぜ』を読みました。攻撃的、挑戦的な句が並んでいますがそれだけでなく、百句の連作としても読み応えのある作品だと思いました。俳句を読み慣れていないので見当違いのことを言ってしまうかもしれませんが、幾つかの点から感想を書いてみたいと思います。
万緑や目が万緑や目が眩む (9)
彼岸花小爆発小爆発 (14)
この二句はとても好きな句で、どちらもリフレインが使われています。前者はリフレインというよりも、強い視覚イメージに対する戸惑いや狼狽の表現でしょう。後者は複数の彼岸花を小さな爆発に見立てているわけですが、いずれにしても向こうから飛び込んでくる自律的な強度を伴うイメージです。それは次の句にも見られます。
見上げれば両目にさゝる松葉かな (11)
瞼閉じても眼<まなこ>は開いている凍死 (38)
ただ受動的に曝されているしかない視覚への攻撃、あるいは刺激。このような知覚、動かないものに強く攻撃される感覚はこの連作に特徴的なものです。その結果として俳人は周囲を殴り返さねばならない。
原爆忌楽器を全力で殴る (4)
春の椅子に腰掛けたまゝ憤慨す (12)
しかし、向こうから攻撃してこないものに気がつくということもあるわけです。
空蝉の手前で止まる箒かな (9)
だしぬけに蛙もとからここに居る (13)
この「だしぬけに」がすごいです。蛙がもとからここに居ることを認識した瞬間を、これ以上無い仕方で直接的に表しています。このようなある種の直接性のようなものもこの俳人の魅力だと思いました。
おゝ
なんと
げすな
看板 (26)
こうしたコミカルにも写る砕けた調子とは対照的に、感傷を排した死に至る存在への透徹した目線も美しい。そこには果物、人間、家屋など様々なものが含まれます。
いつせいに果実は腐る午前三時 (44)
じきに死ぬくらげをどりながら上陸 (46)
沈めても沈めても微笑むなすび (47)
ゆつくりと陽炎になる老婆かな (48)
万緑に解体されし家屋かな (86)
これまで挙げてきた句はほとんどが季語を含み、俳句の形式に則った作品です。しかし、御中虫の句作において何より重要に思われるのは、俳句の形式そのものに対する問いです。
季語が無い夜空を埋める雲だった (69)
歳時記は要らない目も手も無しで書け (80)
季語など存在しないところに何かを据え付けなければならない。季節を超越したところで見たい夜空だってあるはずです。しかし目も手も無しで書かなければならない。語るのでさえなく。そして次の句はあからさまに季語への挑戦でしょう。
秋と秋と秋にレイプされました (94)
とにかく入れておいた、とでも言うような、形骸化した季節の名前とストレートな告発。その直後に、季語のいまいましさが語られます。
台無しだ行く手を阻む巨大なこのくそいまいましい季語とか (95)
しかしこうした直接的な否定の仕草よりも、季語を意図的にある種の伏せ字のようなものとして使ってみせるのが見事です。以下の句での「春雷」は、春雷を指しようがない訳ですから。
そんなに引つ張つたら春雷が破れる (21)
こないだはごめんなさい春雷だったの (78)
最後に、俳句においてはあまり重視されない(と私が思い込んでいる)作中主体に言及しておきます。
女なんだ証拠はないが信じてくれ (37)
という唐突な訴え。我々はそれを信じるしかありません。ある人物が女であるか、男であるかという決定的な証拠はどこにもないわけですし(バトラー読んでね)、ましてこの俳句、あるいはこの一冊のおのおの句の作中主体(なるものを俳句において想定できるとすれば、ですが)は、言葉遣いだけを取れば男女の両極に振り切れていくようでもありますが、結局のところ一句においても一冊においても決定することは出来ません。いずれにしても百句が次のように終わる訳ですから、我々読者はそのような混乱の向こうにいちはやく辿り着かなければならないのでしょう。
混沌混。沌混沌。その先で待つ。 (103)
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出典
御中虫『おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』愛媛県文化振興財団、平成23年。
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