平倉圭『かたちは思考する』
瞠目しなければ――文字通り。
過去も未来も現在も見通しながら、その焦点が絵画面のうえに寸分違わず収斂するようなしかたで。
見ることについて、そしてその実践が書かれている。絵・写真・映画・演劇……を見るときの、観者はいかにしてその対象に巻き込まれていくか。そしてそれを作動させる対象の諸要素の布置はいかなるものか。
それは一方的に、主体と切り離されたものとして客体があるといった見方ではない。人は見るときに、その対象と似てしまう。そのときに起こる魔術的な交感を記述しなくてはならない。
このことは、読むことと同じだろうか。序論でポーが取り上げられるが、本論で詩/小説が論じられることはない。序論の「その先」、ある種の解説として語られた「霊をコンポーズする」(『Jodo Journal vol.3』所収)では、見ることが「自分の非物質的な身体をとおして、画面の諸形象を内側から触っていく」と端的に言い表されている(p.25)。
詩や小説もまさしく言葉の布置――ばらばらに置かれたものとして、無際限に可能な解釈とは異なる仕方で読むことが可能なのではないか、とも思う。筆触を残さない印刷物の上でそれは容易ではないのかもしれないが。ともかくそれは本題ではない。
平倉の議論が扱う「芸術」は、制度化されたものに留まらない。それは「人を捉え、触発する形を制作する技、またその技の産物のこと」と定義されるからだ(p.3)。このとき、『熱海線丹那隧道工事写真帖』という、67人の死者を出した未曾有の難工事を記録した写真集をセザンヌやピカソと同じ仕方で取り扱うことができるようになる。
写真は見えることの条件とともにあるだろう。記録写真のブレや露出不足、浅い被写界深度といったものは、人間がそこで活動することの困難を多かれ少なかれ伝える。とりわけ多くの断層に破壊され、絶えず泥水が噴き出し崩落のおそれに晒された不安定な地質、という場所にトンネルを切り開こうとすることは、「複数の時間で動き続ける大地の内部に、一貫した時間と空間を得ようとすることだ」(p. 137)。写真はそこで、空間的、時間的な閉域を取り出す。
温泉余土と呼ばれる、空気に触れると膨張する水気の多い土に突き当たった箇所では、内側に向けて撓んだ支保工、詰め込めるだけ詰め込まれたI型鋼といったものが技術的限界を超えた事態のパニックを示す。通路を、そこに存在する人や物を今にも押しつぶすかもしれない土圧をそらし、妨げるための構造物は、写真そのもののフレーム、撮影可能性、視認可能性の条件ともなっている。
そのときに、非人称的な記録写真は、誰のものでもない視点から撮られているにもかかわらず、見る者に一種の「身体化された主観性」を与える。写し出された支保工の布置と変形から、私たちは直接感じることのない土の圧力を感知するのだ。
写真は時間的・空間的に有限である。しかし、私たちはそこに写るもの、写り方をインデックスとして、その先を仮説的に読むことができる。切羽(掘削の最先端部)を前にして、徴を読み解くことで進むべきか迂回すべきかを判断していく人・機械・技術といった掘削の共同体と同様に。この共同体にとって、主観的な認識――何が見え、何が起こりうるかを感知すること――と技術的実践とは分離することのできない反復のプロセスである。身体と諸技術は連結して作動する。
この章で言われるのは、工事記録写真の美的価値といったものではないし、山を切り開く人間の文明に対する賛美や自然の崇高さなどではもちろんない。そうではなくて、人間と物質、物体、環境のすべてが相互に連絡し、働きかけながら、何ごとかを認識し、先を読み、何かを実行する。その過程で何かが結ばれて完成作品となるような制作のあり方を、一般に芸術作品と見做されない記録写真集から読み解くことができるさまを示している点において、この章は重要なのだ。
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