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攻撃するアジール――ラース・フォン・トリアー『イディオッツ』

夢を見た。仕事で色々なミスをしてその重圧に耐えかねた私は、周りを無視して大声を出すことで、もう自分は壊れてしまったのだから何も責任を負わなくていいんだと主張しようとする。喉の痛みにかまわず叫び続けていたら目が覚めて、この映画のことを思い出したのだった。

県境の一軒家――それもかなりの豪邸だが――で暮らす若者たちは、知的障害者のふりをして、社会から、家族から離脱し、レストランで食事代をごまかしたり、工場見学に行ったり、森で遊んだり、手作りの飾りを売って回ったりしている。そんな彼らそれぞれに対するインタビュー映像がフラッシュフォワードとして挿入されることで、鑑賞者は、主人公であるカレンの身に何かが起きることを予感しなければならない。

その屋敷の所有者の甥であり、この集団を実質的に指揮しているストファーは、自分たちの行いを、「内なる愚かさ」(白痴性といったほうが、この文脈においては正確だろう)の探求なのだという。であるから、彼らのあり方は、視聴者がどこまで好意的に受け取れるのかはさておき、障害を持つ人々への揶揄を含んだ模倣ではない。それはたんなる「ふり」に留まらず、彼らを内側から変えていくものだ。ストファーは、「障害者」を隣県に移転させるよう交渉しにきた市職員に、その行政による差別に怒りを爆発させ、去って行く車を追いかけながら全裸になって走り回り、仲間に拘束される。

彼らは演技でもあり、内発的ななにかでもある奇行を人前にさらす。そのために本物の施設の人々と交流したり、見知らぬ強面のお兄さんたちに、排泄を介助されることにもなる。好き放題に暮らし、あらゆる責任を果たさず、お行儀のよい人々の「善意につけこむ」。そして彼らとの界面で差別意識を明るみに出し、ブルジョワ的道徳観を揺すぶることが目指されるのだ。

しかし、幸福な時間がうまく維持し続けられるわけではない。家庭に、社会に、彼らは引き戻されはじめる。ジョセフィーヌは有無を言わさない父親に連れ戻され、アクセルは恋愛関係にあったらしいクリスティーヌから逃れるためもあり、仕事に戻った。ストファーは、内なる愚かさの追求という理念を社会生活のなかでも貫けるのか、つまり仕事場や家庭でも障害者を模した振る舞いをできるのか、仲間を試そうとするが、最初に選ばれたペドはそれまでの職場でそのテストをクリアできず、彼らは解散に向かう。

しかし、一番新しい参加者であったカレンが最後にその試練を受けることを申し出るのだ。家出していた彼女はスザンヌとともに、数ヶ月ぶりに妹や夫の前に姿を現す。戸惑いながらも淡々と彼女を遇しようとする家族の様子からは、家を出る前の家庭が愛情に満ちたものではなかったのだろうと窺える。そこで出されたケーキの食べ方によって、彼女はイディオットであることを果たし、夫に頬をはたかれ、スザンヌは「もういい」と言って彼女を連れ出す。その後は描かれない。

これは決してカミングオブエイジを描いた物語ではない。「白痴になること」は、とりわけストファーにとって、しばしばダウン症者の幸福度が高いといった逸話とともに持ち出されるような自閉的な幸福像に反して、常に道徳を参照し、そこからの逸脱を図る攻撃的なアジールである。戦い続けるか、牙を抜かれて帰るしかない。

単なる反抗ではなく、彼らが演技することが観客を含め人を不快にするのは、まさにそれがちゃんと大人になっている私たちの道徳の二重性を暴くからに他ならない。そうは言っても、トリアーはある人々のありかたを自分のために利用している。だからそれは褒められたことではない。とは言ってもこの映画は奏功している。歯切れの悪い表現でしか褒められないとは言え。

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