『プールサイドマン』
※ネタバレのようなものを含みます。ダメな人は最初から読んじゃダメよ。
プールで働く妙に端正な男、水原はまるで喋らないし表情も動かさないが、無数の音に囲まれている。ロッカーの開閉、プールの機械音、同僚の会話、カーラジオから流れるニュース、映画の銃撃戦の音、PCの起動音。そうした数々の、水原に別段影響を及ぼさない音の中に闖入してくる新たな音が、同僚の白崎による一人語りだ。二人は突如、隣のプールに助っ人として派遣されることになったのである。
水原と白崎はそれぞれに異なる仕方でひどく閉じた人物として描かれる。水原は前述の通り口を開かず、同僚とも会話をしないし人と会うこともしない。どこかで飼われている鶏の声とともに起床し、同時通訳の声で世界情勢のニュースを聞きながらシリアルを食べ、車で出勤。ロッカーを二つずつ開閉して確認し、プールを掃除するスタッフの間を通り抜け、機械の点検を行う。開館後は監視員としてプールサイドに立ち、昼休みは車の中でカロリーメイトを食べる。ここでもシリア関係のニュースが流れている。仕事の後は入りの悪いミニシアターで激しい銃撃戦のある映画を観て、夕飯はマクド。帰宅すると他に何も無い真っ暗な和室でPCを立ち上げ、何事かをしているようだ。彼の日常はこのようにして過ぎる。
一方の白崎は徹底して喋り続ける。監督でもある渡辺紘文の怪演である。水原が返事をしないせいでもあるのだが、彼の語りはあたかも自由連想のごとく展開しながら白崎の抱える不満やストレスを明らかにする。最初の出勤時の展開は見事だ。当たり障りのない世間話として白崎は水原に音楽の趣味を尋ねるが、返事はない。「水原さんってどんな音楽聞くんですか? 俺は~~」という戦略で彼は水原の無言に対処する。ビートルズやストーンズなどを聞くのだという。「俺」は「そういう感じ」なのだ。それからボブ・ディラン。ボブ・ディランに「時代が変わる」という曲があるが、白崎は最近すっかり時代が変わったという感覚を持つようになった。若い頃はずっと同じ状態が続くと思っていたのに。何故それを感じるようになったのかと言うと、職場の若者と話が合わないからだ。彼/女らの好きな俳優や漫画のことを白崎は知らない。彼はドラゴンボール世代なのだ。してみれば水原もそうであるはずであり、しかじかのエピソードから今でも夢に見るほど強い印象を受けて育ったのである。だが今の若者はワンピースの世代だ。ワンピースはいただけない。集団主義的なのである。一人で修行をして自らを高めるドラゴンボールとは違う。ワンピースを読んでいるやつは「仲間がいたら乗り越えられる」みたいな感じだからダメだ。そういう集団主義みたいなのは日本中に蔓延している。オリンピック招致だってそうだ。喜んでるやつしかテレビに取り上げられない。現代日本の悪いことは全部ワンピースの所為。俺はこんな風に社会派だけど、プールの連中ときたら……
とまあこの調子である。彼はこのような不満の話を日々展開し、水原は一言も言葉を返さないのであるが、そうしているうちに、白崎は水原のことがだんだん「分かって」来るのである。そして煙草を止めるように(何故なら自分が止めたから)忠告を始めるが、その最中に水原は煙草を吸い始めるし、それに対して白崎が何かリアクションを取るわけでもない。このように二人の間にコミュニケーションは成立していない。沈黙に語らされる白崎は周囲の人間やニュースで流れてくる出来事に対する不満を吐き出し続ける。その不快感は確かに実感の籠もったものなのであろうが、白崎は極めて素朴な実感からしか語れない。等身大の己から外れたものが自動的に、間に合わせの理屈を付けた上で否定されなければならない極めて狭い現実を生きている。そんな彼の語りは、激しいBGMが被さるとき、不思議と身体からはぐれて聞こえるのである。いわば何かに憑かれたような語り。声と映像が意図的にずらされた局面があったのかもしれない。
個・社会・世界、という図式を立てるのは余りに陳腐な紋切り型かもしれないが、この二人はともに、自らを相対化しうる視点としての社会を欠いたまま生活している。そんな二人が数日間ともに通勤したとて、何かドラマが起ころうはずはない。これはいちおう水原の物語である。
水原が耳にするニュースは全てISに関するものだ。著しい人権侵害が行われるシリア情勢と、なんらかのフィクションであろう映画の銃撃戦の音が等価に並べられている。彼はどうやら政治思想があるわけでもなく、ただ過激派(という書き方をするが)になりたいらしいのである。おそらく日常への不満から。PCを見る水原に、刃物を持って素振りをする水原の映像が重なる。初めて彼の内面のようなものが描写される瞬間である。
彼は徐々に追い詰められていくようだ。次にPCを開くシーンでオーバーラップする、超満員の巨大プールの波、網にかかった大量の魚、爆撃、空襲、殺される人々、荘厳な音楽、君が代、水原の耳を塞いだ苦悩の表情。これがクライマックスとも言うべき場面だろう。その後水原は海外旅行に行くという。すると日本人がトルコとシリアの国境付近で拘束されたというニュースが流れる。ISのメンバーになりたいのだと。SNSで関係者と連絡を取っていたという情報も流れるが確かなことは分からない。そのおそらく水原である人物は強制送還になる。そのニュースを白崎が見ている。
それからも水原は変わらぬ日常を送っているようだ。しかし何かの幻滅があったのか、彼の聞くニュースはイギリスのEU離脱など、若干話題の幅が広がっている。これからの水原がどうなるのか、それがある種社会との接点なのかは分からないが、この映画は彼が祭りに向かう姿で終わる。
ところで映画と小説では退屈の表現の様態が異なるのではないか、というようなことを漠然と考えていた。が、もうそろそろおねむ。なので、ちゃんと読んでないけど何か挙げておく。
https://iai.tv/articles/how-we-think-of-our-lives-boredom-in-contemporary-literature-auid-1209
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