フランケンシュタインと人を生む意図
なにかが創作されることと人間が生まれることとは異なる。この異なること同士の類比に過ぎない関係を、私たちは思い詰めすぎている。メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』に、そしてそのアダプテーションを読んで思うのはそんなことだ。
実際これだけ無数の創作を派生させてきた小説だから神話的なところがある。ただしオイディプスと父の神話ではなく、母と子の。
自分をつくりだした者への復讐。マッドサイエンティストの原型であるフランケンシュタインは父として殺され王位を奪われ乗り越えられることがない。
産み出された名前のない生き物は醜く産み出されたことを恨み、与えられることのなかった愛情を要求する。それはまったく、21世紀の私たちがよく知っている、あれだ。しかし私たちは《母》への憎悪と愛情の希求、そして出生の否定の物語に、もはや人造人間を必要としない。もうとっくに人造人間だから。女の股から生まれていようといまいと、「生まれる」ことは正しく受動態として、それも被害の受動として理解される。
美しすぎたために殺されずに捨てられたモーセは預言者になったけれど、美しくあるべくフランケンシュタインに作られたが具体的な描写を拒むほど醜くうまれた生き物は失楽園を学び、お前が自分を作ったのだから自分を愛する連れ合いを作ることで責任を取れという。生き物は、美しく悲劇的な家族の生活を覗き見ることで言葉と文字までも覚え、そして彼らの愛情の輪に入ろうとして、絶望的な仕方で拒まれたのだ。このように全ての社会関係からあらかじめ排除された者に、双数的・想像的な、よい乳房と悪い乳房のドラマツルギーしか見えないことは驚くに当たらない。
そんな要求を突きつけられ、家族を殺すという脅迫に一度は屈して人間づくりを再開するフランケンシュタインが結局、もう一体の人造人間が一人目を愛するとは限らないと判断することは、神の領域たるクリエイションに取り憑かれた男にしてはずいぶん人間的である。(※1)
神の領域というけれど、それは結局書くことと類比される。creatorもauthorも神のことだし、人間の言語はgodlike scienceだ。フランケンシュタインはまるきり新しい生命を作り出すことで一つ上の次元とされるものに手を付けるが、同時に死にかけの彼を保護し彼の物語を聞き取ったウォルトン船長の原稿に細心に手を入れることでも一つ上の次元を"いらって"いる。
彼だけではない。この幾分入れ子になりすぎた物語において、怪物は創作されたものでもあれば語り手でもあり、自らの物語とともに、潜みながら観察した家族の物語を語る。彼が言語を習得すること、言語を"godlike science"と呼ぶこともまた、彼の造り手とパラレルなはみ出しである。そして、彼が語る家族の挿話も、怪物自身が侵入することで破綻する。書き手の書かれ手への侵襲。書かれ手の書き手への侵犯。それが書くことと生むこととを癒着させた形で常に進行する。(※2)
少なめに見積もって「光あれ」からだろうか、私たちが誰かの意図によって生まれてしまうことになったのは。この意図性が、造り手への、自分がつくられたことの憎悪を可能にするし、そのそれぞれへの破壊しか起こさない侵入を招く。一方で実際に生命が書かれたものにますます近づいていくなかで、フィクションはそうでない、書き手と書かれ手の双数的でない何らかの関係を思考できるだろうか。そうしなければならないのではないか。それがどんな形でなされうる(あるいは、なされている)のかを私は読めていない、けれど。
※1 女性は常に理想的な女性であり、優しく美しく高貴で不幸の中にあっても気高く、子供は全て常に純真である。ゴシック小説によくあることといえ(オトラントをみよ)、理想的であることをしか許されないなかで、醜く性悪であるかもしれない女の生き物は命を吹き込まれる前にバラバラに壊される。
※2 これがまさしくメタフィクション的なアダプテーションを可能にする隙間か破れ目のようなもの、なのだと思う。例えばジャネット・ウィンターソンの_Frankissstein_。現代にヴィクター・フランケンシュタインとメアリー・シェリーの生まれ変わり(ついでにバイロンなども)を登場させ、二人を愛し合わせると同時に、18世紀のメアリーの前にヴィクター・フランケンシュタインを登場させるような遊びの効いた小説だけれど、AIや死の克服を主題としながら、書くことと生むこととの関係を利用し続ける。
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