分娩は銃撃戦だ――アルフォンソ・キュアロン『ROMA/ローマ』を観たよ
※例によっておそらくネタバレのようなものを含みます。
主人公は召使いのクレオ、そして雇い主のソフィア。クレオは妊娠が分かって相手の男が逃げる。ソフィアの夫は愛人と去り、一銭も送ってこない。二人は子供を介して単なる仕事以上の信頼関係を築いているようだが、ソフィアが夫と子供との間で不安定になっていることとクレオの妊娠が重なり、ときにギクシャクすることがある。大筋はそんなところだ。
書きたいことは色々あるが、ひとまず、分娩は銃撃戦なのだと言わせてくれ。ひとつのクライマックスであろう、一連の場面を挙げる。
妊娠が分かったクレオはベビーベッドを買いに行く。ときはあたかも学生運動が進行中、めぼしいベッドの値引きを頼んだそのとき、学生たちと弾圧側の間に激しい銃撃戦が始まる。家具屋は2階の路上を見下ろす場所にあるが、助けを求めた男女がそこに逃げ込む。追っ手も集団で現れる。逃げてきた男は即座に射殺され、女は負傷して泣き喚く。
クレオと同伴のソフィアの母(?)にも何者かによって銃口が向けられている。追っ手が出て行くときになって、その主がクレオを孕ませて逃げたフェルミンであったことが知らされる。彼らが去って安堵する間もなく、クレオは腹を押さえ、破水する。慌てて病院に向かうが、死者や助けを求める人々は路上に群居している。
彼女は病院の分娩室に運び込まれる。そこでは複数の妊婦が呻き声を上げ続けている。その音は奇妙にも、銃撃戦と地続きに感じられる。そのくらいの狂騒だ。クレオの状態は極めて事務的に、迅速に処理される。胎児の音が聞こえない、危機的な状況だ。そこで彼女は手術室に移される。手術室は静かだが、スタッフが状況を確認しながら迅速に、決まった処理がなされていく。切開を待たずに胎児は出て来るが、生きている様子がない。
前景、画面の下半分に横たわるクレオの体。上半分の背景では死産の赤ん坊が蘇生を試みられる。試みが無駄に終わると、医師はクレオに赤ん坊を抱かせ、別れの言葉を告げるよう促す。事態は終始事務的で、型どおり進行する。産後の処置を受けるクレオの背景で、死んだ子供はテキパキと白い布にくるまれていく。クレオの娘はそのようなオルタナティブな銃撃戦を生き延びることがなかった。
出産に不吉な影を落とすのは銃撃戦だけではない。妊娠を疑い、初めて受診した日のこと、クレオが新生児室をガラス越しに眺めていると、地震が起こる。地震の揺れもまた、銃撃戦のような狂騒を呈する。側に居る祖母と孫の二人が祈り始めるのも、クレオ破水の場面と重なる。揺れが収まると、乳児を擁した保育器の上に瓦礫が積もっている。
そういえばクレオが男に妊娠を打ち明けるのは、ゴキゲンな戦争映画が背景で流れる映画館だった。こうした不吉な予兆は作品全体に極めて巧みに織り込まれている。
年始のバカンス、雇い主家族の休暇に同行し、パーティを抜ける許可を貰ったクレオは現地の召使いと酒場に落ち着く。お腹の子供に障るから、と最初は酒を断るのだが、飲むことにしたカップに口を付けようとした瞬間、踊っている女に後ろからぶつかられてそれを取り落とす。地面に落ちて割れたカップの周りに乳白色の酒が水たまりを作る。それは容易に母乳を思わせるだろう。
様々な予兆は、最後の重要な場面を用意する。子供同士の喧嘩で重いものを投げつけ、窓が割れる場面。さっと血の気が引いてみんなが一気に冷静になる。当たったら死んでた、と。(この場面は『牯嶺街少年殺人事件』のワンシーンを思い出したが、どうだろう)
それから大人たちが銃で遊んでいるときも、危ないから行ってはいけないと言われるところに子供たちはすぐ入って行こうとする。その傾向が致命的な出来事に繋がるのが、終盤の海のシーンだ。
上の二人の子供は、波打ち際だけなら遊んでいいと言われている。波は高い。下の子(ぺぺ)を東屋に向かわせながら、クレオは沖で泳ごうとする子供たちに声をかけ続ける。ぺぺは前世の記憶のようなものを語る。「大人だったとき、船乗りだった」。そして彼は、海で溺れたのだという。ぺぺは海を見ていない。目線の先にはクレオが居る。クレオは海で遊ぶ上の二人に声をかけ続ける。クレオの呼びかける声がくっきりと流れ、画面の外で確実に、よくないことが進行している。
クレオは二人の子供を救出に向かう。海に入ると呼びかけはかき消される。ほんの少し沖に向かって進むだけで海はうんと深くなり、波は高くうねる。大海のような波のなかに、ようやくクレオの腕に戻った二人の咳き込む声が重ねられる。圧倒的迫力だ。
陸に戻ったところでポスターに採用されたカットとなる。母親と子供たちがクレオを囲み、クレオはお腹の子供が本当は生まれて欲しくなかったのだと打ち明ける。彼女らの親密さが頂点に達する瞬間だ。とは言えクレオと子供たちの関係は最初から良好であり、寧ろここでようやくソフィアとクレオとの関係が更新されたと言えるかもしれない。
クレオの変化という点では、飛行機にまつわるショットを挙げておきたい。まずはオープニングのロングテイク。写っているのは床だ。実はこれから何度も何度も写され、犬のうんこまみれになる、雇い主の家の入り口である。そこを掃除している。カメラは真上から俯瞰し、抽象的な画面に水が何度も押し寄せては、どこかにある排水口の方に流れていく。その水面に四角く空が反射している。クレジットが流れるなか、四角く切り取られた空を、飛行機の影が横切る。同時に、掃除に使った洗剤がその水に混じる。二つが重なるとあたかも機影から爆弾が落ちてくるかのようだ。
この光景が、エンドロールでは視点をちょうど反対向きにして繰り返される。広角レンズであおって撮られた空は、冒頭の床に写るそれよりもずっと広く明るい。その空を間を置いて三機の飛行機が横切る。中盤ではいささかコミカルに扱われていたように思う。フェルミンを尋ねていった道場に、武術の指導者らしい人物が来ている。その男が奇妙なポーズを取って体幹の強さを示すときがそれだ。男の頭上をゆっくりとジェット機が飛んでいく。この指導者と同じことが出来たのは、誰も気付いていないものの、クレオだけなのだった。
考えるのはここまでにするが、他にも感情を揺さぶられるショットが数多くあった。パーティの最中に山火事が起こり、みんなで消火活動をするなか、ナマハゲのような格好をした人物がカメラに向かってひとくさり歌う、の潔いまでに幻想に振った場面(なぜかボロ泣きした)、多くの人が行き交う賑やかな邸宅(『灯台へ』じゃん、これは、と何回か思った)、全裸で剣術を見せびらかしセックスアピールにする男は、最初武術の精神性を強調しているが、結局威嚇に使う馬鹿だったり(多分笑うところ)、繰り返し使われる映画やテレビの映像は一考に値するだろう。政治的、歴史的文脈はおそらくこの作品を論じるにあたって決して無視していいものではない。しかしそれでも、この映画の美的側面はそれ自体、極めて希有な達成であろう。
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