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今井祝雄―行為する映像@アートコートギャラリー

 自己言及フェチなので自己言及のことだけ書きます。

 <<セルフポートレイト>>という作品は一本の長いビデオテープがポラロイドカメラで撮影された作家の写真5枚か6枚にホチキス留めされたものだ。壁に画鋲で留められた写真と写真の間のテープは床にとぐろをまいている格好である。これだけでもコンセプチュアルで面白い作品だ。ビデオテープのホチキス留めされた位置に記録されている映像の1コマが、ポラロイド写真として提示されていると解釈することができる。

 この作品の制作風景が、実は映像作品として隣に展示されている。始めに映し出されるのはテレビ画面――なつかしきブラウン管の筐体。カメラが徐々に引くと今井の姿が見え、筐体の中にも彼の同じ姿が映し出される。私が今ギャラリーで観ている映像が、撮影されると同時にその映像内で再生されているというわけだ。となると理屈の上ではその筐体の中に更に小さな筐体が見えなければならないが、理論上の無限後退は画質の荒さによって阻まれている。なんという身体性!

 その映像のなかで今井は自分の写真を撮り、床にたまったテープを取り上げてそれにパチンとやり、壁に画鋲で留める。これが何度か繰り返される。最後にカメラはそのテープの出所を追っていき、それがまさに今吐き出されている記録中のビデオテープであることが示される。そして今井がそのスイッチを切るとともに、映像は暗転するのだ。

 今目の前にある物体が、自らの出生を記録した情報でもあり、それがさらに目の前で流されていると考えることはなるほど魅惑的である。しかし、ここには自己言及的な作品が孕まなければならない嘘のようなものがいくつも含まれているだろう。それは主に技術的な要請から生じるものだと思われる。(が、ビデオの仕組みがよく分からないので詳述はしない)

 テープがホチキスで留められてしまったらその部分を再生することは出来ないか、難しくなるだろうし、この映像の制作風景の写真を見ると、多分撮影しているカメラと作品に使われているテープは繋がっていない。折々挟まれるカットはおそらく今般の展示に使われた映像がダイジェスト版であることに起因するのだが、それを差し引いても、まことしやかな自己言及には巧妙に嘘っぱちが仕組まれていなければならないのだと思う。ひとたび語ろうと、あるいは創ろうとすれば、おそらく真率ではいられない。

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