伊丹市立美術館、ソウル・ライター展
鏡を見ながらキャンバスに自分の像を描く時、画家は分裂している。写真家が鏡に映った自分の像を撮影する時、写真家はそのフレームに閉じ込められている。
ソウル・ライターの写真——商業写真にも、スナップ写真にも——に頻出する閉じ込めの構図は、ひょっとすると撮影者自身を閉じ込めているのかもしれない、と感じたのも故のないことではない。
ガラス越しに、あるいは梁の上から、あるいは扉の隙間から、あるいは野次馬の肩越しに捕らえられた被写体は、構図の上ではフレーム内のフレームに何重にも閉じ込められ、ときに切り刻まれる。それでも例えばヒッチコック映画のように圧迫感と恐怖を与えるような閉じ込めではない。
親密な人々を写したヌード写真を見てようやく腑に落ちる。ストリート・スナップと同様に黒く潰れた壁や扉が大部分を占める画面に、撮影者に微笑む被写体がいる。観るものには決して向かわない微笑みを奪い取ったレンズ。彼女も撮影者も、閉じ込められてはいない。二人は今すぐに扉を開けていずれかの空間に侵入することが出来るだろう。つまるところ、定着した像の前に立つ観客が疎外されている。あまりに存在感の強いフレーム内フレームは観るものと写された空間の間に壁を作る。
そんなことは当たり前なのかもしれないが、しかし、ファッション写真の撮影者と観客の距離はずっと近く感じられるのであって、ダ・カーポ。
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