『グリーンブック』と男性性、あるいは「私」と「あなた」の空虚さについて
「その後2人は末永く幸せに暮らしましたとさ めでたしめでたし」ってもう誰も信じないのに「その後2人の友情は生涯続いた」にはケロッと参っちゃってどうするんだ。
オデュッセイア的出発旅行成長帰還再会のナラティブに、一見両極端な2人が悶着を経ながら徐々に歩み寄って仲良くなって、1回は大喧嘩をして最後は大団円。片方は孤高の天才黒人ピアニスト(シャーリー)、もう片方は賭け事には絶対負けない、あらゆるトラブルをbullshitと腕力で解決する俺TSUEEイタリア系移民(トニー)ときたら、もう様式美と言っていい。シャーリーがトニーを用心棒として雇い、差別的な扱いを受けるであろうことが間違いないディープサウスのツアーに繰り出す。
人種差別をテーマにしているだけあって、ピアニストが南部で直球の差別に直面するほか、エリートの彼が労働者階級のトニーに「君の苗字は発音しにくいから縮めたらどう?」とか言っちゃったり、発音を矯正するマイ・フェア・レディのパロディ的挿話があったりするのも、それが通じる人への目配せでしょう。シャーリーがMSMとして描かれているのも、もちろん彼の様々なコミュニティから疎外された立ち位置を構成しはするけれど、どうも目配せ的だなあという雰囲気が拭えない。
それにしても色気のない映画で、最後の方にちょっとだけ出て来るパブの店員以外誰も媚態を示さない。し、それはそれとしてペネロペ的立ち位置のトニーの妻ドロレス以外にプレゼンスのある女性も特になし。トニーの家族は典型的なイタリア系らしいカトリックの大家族で、夫婦もきょうだいも親子も仲が良く、何の問題もない。これにぎょっとしてしまうのは、アメリカの白人男性の物語に成長して大人の女性と恋愛することから逃げて異人種の男性や年端のいかない少女へと遁走する伝統を見いだしたレスリー・フィードラーの批評や伝統に反抗することが伝統となっているという平石貴樹の詩的に見られるような型からこの円満さがはみ出しているからだ。もっとも、ここでトニーの留守中にドロレスに言い寄る誰それ……とか虐待が……とか麻薬が……なんてことになるとシナリオに収拾が付かなくなるという理由もあるだろう。
そしてもちろん、トニーは伝統的なアメリカの物語の主人公とは違う。なにせ移民(2世?)であるし、どちらかと言えば被差別階級。であると同時に、コミュニティへの帰属の象徴でもある。家族、イタリア人コミュニティ、近所の店、等々の場所に彼は居場所を持っている。これが黒人コミュニティにも白人コミュニティにも属せず異性愛者として派手に振る舞うこともできないシャーリーの孤独と対比される。高村峰生(せんせー)が以前twitterで男性の主人公を造形することがますます難しくなっているのではないか、みたいなことを書いていたけど(それは日本の小説の文脈だったけど)、たとえば病んでなくてマイノリティになりうる要素が少ない白人男性とかってなると、無理なんじゃないか。
トニーとシャーリーはロマンティックにならないし、ドロレスを巡って三角関係になることもない。旅行をしながらトニーはドロレスに手紙を書くのだが、暇に飽かせてだろう、シャーリーはその添削……どころか代筆を始める。(bullshitとか言いたくなかったシャーリーがスペルを直すときに「bullsitterのtは2つ」とか言わざるをえなくなってしまうところとかは笑った)。「君」への想いを修辞的に、美文的に綴ったラブレターである。ドロレスはそれがトニーの言葉でないことに(当たり前だけど)気づいていて、それでもウルウルくる。ここを観ていて思うのは、詩的言語で「あなた」に対する「わたし」の気持ちがうたわれるときに、そこに固有名を持つ具体的な人間同士はいなくなるということだ。それは私からでもあなたへでもない。だから人の心を打つ、シャーリーの音楽もおそらくそのようなものとしてあって、同時に日常から引っこ抜かれた孤独もそこに表れている。私はやっぱりトニーが書いていたような、ハンバーガーを食べてるとかアイロンを持ってきたらよかった、みたいな手触りのある手紙の方がもらいたいと思うのだけど、どうだろうか。
この話はシャーリーがトニーの代筆をする箇所だけど、もう1つ注意しておきたいのが、シャーリーが元妻のことを話す場面で、"you'd quite like her"と言っていたこと(車の場面多くてどこ行ったか分からんから確認出来てない、間違ってたらこの段落は無効)。誰かのことを好意的に話して、あなたもきっと気に入るでしょうと言うことはよくある社交辞令ではあるのだけど、しかしここにも1人の女性を巡ってこの2人が補完しあいながら同一化する契機が含まれているのだ。夫であることと音楽家であることを両立できなかったと語るシャーリーと、家族想いで様々な仕事を器用にこなすトニー。レイシストで手が早すぎてマッチョなトニーと非異性愛者で繊細で孤独だが内面を他者にコミュニケートすることが苦手なシャーリー。この2人の融和は男性性が全体性を別の仕方で回復する物語だと言ってもいい。女子供は(これだけ大切にされているにも関わらず)余計である。
だとしてもコミュニティに帰属できなくて寂しい思いをしているシャーリーの姿は、別に天才でなく特にマイノリティでない多くの人を共感させるポテンシャルがある。超偉い人に助けてもらったら「自分なんかのために……」と激しい恥の意識に苛まれ、ニューヨークに帰ってトニーに家族のクリスマスパーティに誘われても断ってしまう。兄弟に手紙でも書けばいいのに、と言われたシャーリーは、「向こうはこっちの住所を知ってるはずだから」などと拗ねてしまって、トニーに「寂しいときは自分から行動を起こせ」と至極全うなアドバイスをされる。それで最後にはワインボトルを抱えてトニーの家を訪れることが出来るハッピーエンドなんだけれど、この辺りは自己啓発的になっていて、実際マイクロアグレッションを堪えて憂鬱になってますます敏感になって、ということをやっていてもタコツボなのでこの辺でバランスを取らないとな、と作品のよしあしとは別にして身につまされたのでした。
ローマの方がいい映画に決まってるけどな……。
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