城下浩伺「PICTURE」@hitoto

 それらが衛星写真のようだったのは、真上から凹凸や異なる質感のあるものを撮影したときの光の具合のためであったのと、実物とのスケールが大きく異なっていることによったのだと思う。だからオンライン展示で見たときとは随分感じが違っていた。

 衛星写真は山や湖のような我々より大きなものを目の前のフレームに収めてしまうが、ここで見た絵の写真は体の幅だけあるかないかの範囲を人の背丈よりも大きく引き延ばしていた。そういうスケールの狂いを、具体物でないものから私達がどのように感知しているのかはよく分からないけれど、例えば実物大の人間よりも大きく描かれたタペストリーや大作の絵画に出て来る人間のスケール感とは違う、もっと光学的ななにかが多分あったのだと思う。

 水分が蒸発してしまう前の、ほんの短い時間だけ、描いた当の人くらいしか目にすることのできない状態の絵を撮影したものであるというのを読んで、有馬温泉で売っている3秒だか5秒だかだけフニャフニャの状態を楽しめる、とは言え熱すぎてその時点では食べられたものじゃない炭酸煎餅のことを思い出した。でもこれはかなり変な連想で、フニャフニャの炭酸煎餅を撮った写真や映像は炭酸煎餅ではないけれど絵をみっちり写し込んだ写真はまだ絵かもしれない。絵のフレームと写真のフレームの外側に観る人はいるけれど、安定した状態になる前の絵は、その絵の内部だとも思う。

 完成というのはやっぱり全然固定した事態ではなくて、始まりから崩壊までの間にある無数のうちひとつの様相を切り抜いてそう呼んでいるにすぎないのだけれど、でもそのひとつを完成と呼ばせてしまう何かというのは確かにある。それを見てきたのだと思う。

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