ボイス+パレルモ 備忘

 現代美術のビッグネームであるヨーゼフ・ボイスとその教え子であるブリンキー・パレルモの回顧展。一見全く異なる作風の二人だが、ボイスはパレルモを自分に最も近い表現者と評しており、派手なステートメントやメッセージを持たないパレルモの作品をボイスの作品とキュレーターの言葉によって照らすような展示だった。会場ではボイスのコンセプトに「なるほどなぁ」と思いながら歩いていたが、見終わってからより深い印象を残していたのはパレルモの"作品"である。ギャラリーガイドに寄せられたエッセイで、リー・キットは次のように書いている。「彼は満たされていた。壁にものが、絵画がかかっているのを見ることの幸福に。」

 ボイスについて。彼が多用する脂肪という素材は、怖い。戦場で負傷したとき現地人に助けられ、傷の手当てに脂肪とフェルトが用いられたそうだが、脂肪というのは生きたものや死体よりずっとこわい。もとの全体が分からないから、という理由もあるだろう。ボイスはそれを踏んづけたり溶かしたりする。あるいはそれは有機物だから腐ったりもする。このことは完成というコンセプトに突きつけられた挑戦であると言われる。

 彼は(パレルモもだが)「マルチプル」と呼ばれる、複製の製作を前提とした作品作りも行っている。木箱に線を引いて字を書いたようなものだ。「直感」という作品は、1万2000個も作られたらしい。レディメイドはもちろん、展示されるばかりでなく流通しうる。「芸術=資本」をスローガンとしたボイスの思想は徹底して民主的であり、芸術を直接民主制のための手段のように考えている節さえある。アカデミーの不合格者を連れて事務局を占拠して入学を認めさせたりもする。そこには、というのは既存の制度や伝統的な規範への反抗の裏には、素朴と言っていいほど人間や素材となる物質への信頼があるのではないかと感じた。

 実社会への介入という意味での運動=アクションもあるが、(ボイスにとって境界はないのだろうが)パフォーマンスとしての「アクション」が代表的な作品と言えるようだ。脂肪を踏んづけたり溶かしたり、大きな棒を立てたり寝かせたりといった行動がそれを形作る。(ウサギの死体を連れて美術鑑賞をするパフォーマンスは(その分かりやすさのゆえに?)代表作と言われているみたいだが)。そうした儀式的な行動は、ボイス本人の一回的な、全身的な存在を要請し、また形作っていくことになる。観客にぶん殴られて鼻血を流しながらパフォーマンスを続けたことを解説は「自己神話化」の営みとするが、どうなのだろう。マルチプルの制作や、彫刻と言われる作品は、「そこにボイスがいた!!!」ということよりずっと雄弁に彼の思想を語るのではないか。

 パフォーマンスにも立体作品にもなにか緊張感があるが、絵やドローイングはふしぎと力が抜けていて見やすい。それはアイデアの萌芽的な場でもあったのだろう。(習作と完成品の厳格な区別などつかないはずだ、とはもう一度言わなければならないが)。«20世紀製、華奢な人のための背中用コルセット(うさぎタイプ)»という(穂村弘みたいな)絵は、けっしてそのタイトルが示すものを表しているのではなく、即興的、連想的に名付けられたように思える。

 パレルモについて。彼の作品には、ボイスとは対照的に、「それ」でなくてはならないアウラがあると思った。それは彼が素材と空間に対する物質的な介入と探索を行っているからだろう。知覚のマッサージと呼べるような体験。が、評判が悪くあまり制作されなかったというミニマルな壁画(展示用の可動壁に色を塗ったものや、向かい合わせの壁にネガ/ポジになるように色を塗ったもの、などの記録が展示されている)が一番おもしろく、そこに居合わせられないことが残念だった。

 こう振り返ってみると、パフォーマンスと映像、物体とコンセプト、といった対立を私たちがどう見ているのかを考え直すための展示でもあった。私の記述が一方の側に立ったと思ったら即座に矛盾を言ってしまっているように、ここに置かれていたものはどれも完全にコンセプチュアルであったり完全にアウラ的であったりすることはなかったのだろう。

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