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MONO新作台本創作ノート1.1

  今回は創作ノートにならない。
 言い訳ノートだ。
 上の写真は随分前、私がまだ北海道戯曲賞の審査員をしていた時のものだ。審査会に臨む前にジンギスカンを食べているところだと思う。右にちらりと見切れているのは長塚圭史さん。今回書く内容に関係しないし申し訳ないのでトリミングさせてもらった。そして私、左は桑原裕子さん。

 前回、MONOの新作のタイトルが「たわごと」になったと書いた。さらにはなぜそこに着地したのかを誰に頼まれたわけでもないのに滔々と述べた。

 しかしだ。結果からいえばタイトルは変わった。
 まずは経緯を書こう。

 次回のMONOの公演は5カ所で上演される。まだちゃんと発表していないけれど、大阪で初日をあけ、その後は新潟、東京、豊橋、岡山と回る。

 新潟の劇場からタイトルは決まってますかという問合せがあった。広報誌に情報を出したいということらしい。それで「創作ノート1」のような考えのもと「たわごと」に決定。制作に連絡し、新潟にもその旨を伝えてもらった。9月29日の朝だ。決まったことが嬉しくて創作ノートをその日に書いたのだ。
 
 翌日、30日の16時からはその公演のチラシデザインの打合せだった。
 そろそろ出かけようかと着替えている時……LINEが来た。 
 くれたのは桑原裕子さん。人気劇作家であり、頻繁にくだらない話をする仲良しだ。
 LINEの内容は以下のようなものだった。 
 MONOの次回作品のタイトルが「たわごと」だと聞いたけれど、自分が昨年上演した作品も「たわごと」だった。大丈夫でしょうか?
 桑原さんは知り合いから連絡をもらったらしい。もしかしたらその人が私のnoteを読んだのかもしれない。

 そのLINEを読んで私は固まった。
 頭の中が真っ白になるという表現があるが、結構白くなるね、あれ、本当に。
 桑原さんは親切にも「かぶっても全然良いのですが」と書いてくれていた。その上で、私を心配して「大丈夫でしょうか」と聞いてくれているのだ。私の頭の中で真っ白になった部分に文字がゆっくりと浮かんだ。

 「大丈夫ではない」

 ……全くもって忘れていた。
 「たわごと」だった。
 あの作品のタイトルは「たわごと」だったのだ。
 不思議なことに一回思い出すと記憶が鮮明に蘇った。
 私は京都公演を観に行った。そしてトークにも出してもらった。その「たわごと」は面白く私も興奮気味に喋った。終演後には桑原さんや出演者の田中美里さんたちとお好み焼きを食べに行き調子に乗ってはしゃいだ。おどけている自分の姿もくっきりと浮かんだ。
 あの自分の笑顔が憎い。
 まずいまずいまずい。
 なんだ……一体なにをしているんだ、私は。

 連絡をくれて本当によかった。
 桑原さんに伝えてくれた方にも感謝した。なんなら創作ノートにタイトルを書いたことすら良かった。でなければ、そのまま同じタイトルのチラシが出来上がっていたはずだからだ。

 桑原さんには返信し私はすぐに制作に連絡を入れた(ちなみに桑原さんは同じタイトルでも構わないと思いますという優しい返事をくれた)。
 制作はすぐに新潟の劇場に連絡を入れて一晩の猶予を与えてもらった。 
 そして……私は電車に乗りチラシの打合せに向かった。時間をもらったとはいえ、チラシのアイデアを話すためにもタイトルは欲しい。阪急電車の中で色々と考えた。焦ってしまい、なにも思いつかない。タイトルを「長岡天神」にしようかとすら思った。次に思い浮かんだのは「淡路」。どちらも阪急京都線の駅名だ。これではダメだ。
 結局、タイトル未定のままチラシの打合せを終えた。

 私は認知心理学の本などをよく読む。
 人間は自分にとって都合のいい情報だけを集める。そして目的にとって邪魔なものは無意識の中で排除する。
 私はタイトルを考える過程でとにかくシンプルにと考えていた。自分の好みである文章のような長いタイトルは避け、これまでにないものをつけたいと悩んでいた。今回、陰謀論的なことを話題にするので、「世迷言」や「戯言」が思い浮かんだ。ひらがなにした。「よまいごと」「たわごと」。
 多分、この時に桑原さんの作品が「たわごと」であったこと、その作品が面白かったことを無意識が排除したんだと思う。シンプルなタイトルをつけるという目的を達成することだけに意識が向き、その存在が見えなくなったのだとしか考えられない。

 これは本当に怖い。
 
 実際に、私は逆の立場になったこともある。
 昔、私の作品が好きだと言ってくれている若い劇作家の方がいた。その人から案内をもらった。「土田さんのAという作品に設定が似ちゃったんですが観にきてください」と言われて私は劇場に足を運んだ。確かに設定はAに似ていた。けれどそれは聞いていることなので全く気にならなかった。むしろ、シーンシーンに出てくる細かな台詞や、そこで展開するエピソードが私の他の作品のあれやこれやに酷似していることが気になった。
 多分、それらは本人も気づかないところで行われたんだと思う。
 今回の「たわごと」も似たようなことだろうな。無意識は……本当に怖いとつくづく思った。
 創作ノート1を読み返してみると自分でも笑ってしまう。

「たわごと」とつぶやいた時、妙に腑に落ちた感じがした。もちろんそれは考えている内容とのリンクも含めてだけど。「よまいごと」にはまだ少しだけいやらしさが残っているしね。 

 おいおい、腑に落ちてる場合じゃないよ。
 「『よまいごと』にはまだ少しいやらしさが残っているしね」って。
 そんなことじゃないんだよ。語尾の「いるしね」がさらにバカさ加減を増幅させている。
 文章にしにくいが、この「腑に落ちた」瞬間の気持ちは、意識下で思い出したわけではないが、桑原さんの「たわごと」の存在が無意識にあったからなにかしら発見した気分になったんだと思う。
 
 チラシの打合せの後、ワークショップがあった。
 夜の12時半に家に帰った。そしてノートを広げて新しいタイトルを考えた。
 次回のMONOの公演タイトルは……

「デマゴギージャズ」

 
 全然違ったものになった。
 この過程も説明したいけど抜け抜けと書く自信が今はない。
 
 だけどタイトルは気に入っている。  

 
 
 

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