幼少期の話。2■姉に起こったこと
私が小学校4年生の頃、姉がいじめにあった。
いや正確にはいじめの対象が今までの子から姉に変わった、である。
姉はその女の子をいじめから守った。結果自分にいじめの対象がうつった。
主犯格は小学生の時とても仲良かった男の子、そしてそのグループの中には姉の好きな男の子もいた。
結局、友達を守って自分がいじめられる対象になった姉だったが、守ったその女の子は幼馴染だったのだけど、もういじめられたくなかったのだろう、そのままいじめる側に回ってしまい、姉はただ貧乏くじを引いたような状態になってしまった。
とても仲良かった男の子からの壮絶な言葉の暴力、
好きな人からの暴言、
気が強く、正義感の強い姉は最初は抵抗していたが、
周りが見て見ぬふりをした結果、
そのストレスから全身にアトピーが発症してしまった。
ただのカサカサ、ではなく結構な重度で
その痒みが収まることが一日を通して殆どなく、
じゅくじゅくになった肌を、これでもかと言わんばかりに掻き毟ろうとする姉、そしてそれを泣きながらとめる母、それに対して「痒くて仕方ないの!!!」と泣き叫びながら母に抗う姉
そこは地獄だった。
後々わかったことだが、その日の皮膚科の帰り道、
じゅくじゅく肌を守るために顔にぐるりと包帯を巻かれた姉。
それを見た見ず知らずの少年達の
「おい、お前見たか?今の」
「見た見た、おるんやね!!ミイラ女!!」
と話す、その言葉に姉の心は折れていた。
2人のやり取りが収まって、少し母が姉の部屋から1Fに降りて上がってきたところ、首を吊ろうとしている姉
「あんたなんしてんの!!!!」
と飛びつく母
「死にたい!もう嫌だ、こんな顔嫌だ!痒いし、でもかいちゃだめって言われるし、でも痒くて仕方ないんやもん!!死にたいよ!死なせてよ!!わーん」
と泣き叫ぶ姉。
この頃、母も姉も精神が摩耗していた。
かくいう私も、どうすることも出来ずに、ただ見守るしかできなかった。
┈┈┈┈┈┈┈
小4の冬、姉は大学病院の心療内科に入院した。
自殺をしないように、見張られ、コードで首を吊るかもしれないからカセットデッキも持ち込めない。
そんな真っ白な病室で
姉はベッドの縁からコウモリのように頭を下にしてぶら下がっては、看護師さんや母に止められていた。
(姉は後に、そうすると頭に血が行ってボーっとするから少し痒さが和らいでたんよねぇ…まぁ見つけた人はそりゃあホラーよね…とケラケラ笑っていた)
精神的に不安定な姉と、そのお見舞いやお世話に毎日通う母、
父は相変わらず仕事していたし、
祖母も相変わらずだった私は
学校から帰ると机に置かれていた1000円と
「病院行ってくるね、これでご飯食べてね、帰り遅くなるね」という母からのメモを握りしめ、
1人近所のスーパーへ足を運んでいた。
当時はそこまで私は苦ではなく、
スーパーで300円台のお寿司5貫のセットと
卵とほうれん草で作るスクランブルエッグ、納豆にハマっていたため、それだけ自分で作って
食べて過ごしていた。
自分のことは自分でする、
自分の悩みも自分でどうにかする、
いや、どうにかするしか無かった。
母に「あんた1人で頑張れる?ごめんね、あんたに負担かけるけど、今お姉ちゃん大変な時やけん。お願いね」
と言われていた。
私はあまり考えてはいなかったが、
でもどこかしら感じる淋しさは多分見ないふりをしていた。
┈┈┈┈┈┈┈
小学校5年生になり、我が家は犬を飼うことになった。自宅で療養する姉が少しでも笑顔になれるように、と言う話であった。
後にベランダ犬になった彼女の名前は「パティー」
幼い頃姉妹揃ってハマった「メイプルタウン物語」の主人公のうさぎの名前だ。
里親募集でであった彼女は私のお気に入りだった。
姉はくるくるヘアーの可愛い子が気に入ってたようだったが、私はたくさんの数いる中、皆キャンキャン!と可愛くアピールしてる中、抱っこしても、こそぐってもまったりと起きずにスヤスヤ寝ている黒い彼女に何だか癒されてしまった。
姉はみんな可愛くて選べない!と言っていたが、私がこの子じゃないと嫌だ、と、後にパティーとなのつく、我が家の癒しを推し、結果無事家族となった。
姉は浮き沈みはあるものの、少しずつ笑うことも増えていた。
かくいう私も、姉や母が通院で不在の際は
パティーと遊び、夜、淋しかったり辛かったりする時は、母に心配かけるわけにもいかないので、そっとバレないように、ベッドの下に作ったダンボールの秘密基地の中にパティーと隠れて、よくひっそりと涙を流したものだ。
┈┈┈┈┈┈┈
姉が体調を崩してからというもの、我が家ではひとつ決まりができた。
それは「姉がいる時は家の中で勉強しては行けない」
というルールだった。
元々姉は勉強も運動もできる超がつくほどの優等生だったが、アトピーが酷くなり、運動で汗をかくと痒みが増すためできない、勉強も身体が痒くなってしまいできない、そんな状況だった。
かくいう私はと言うと、今でも伝説に残るくらいの運動音痴であったものの、姉と同じく勉強が好きで、優等生タイプだった。(但し、頑固なマイペースだったため先生たちとよく喧嘩した。笑)
姉的には好きで勉強が出来なくなったわけじゃないのに、出来ない現状が悔しく、私が勉強しているのを察すると大暴れしていたのだ。
だから、母から宿題禁止令が出た。
前代未聞だった。
担任の先生には話が言っていたが、
勿論クラスの宿題したくない子からすれば
「ひなちゃんはしなくても怒られないのに、なんで私たちは言われるん!?」だった
先生も説明はしてくれるが、納得するはずもなく、
結局当時仲良しグループとして一緒に動いていた7人組のお母さんたちが協力してくれて、
学校が終わったら、皆で幼馴染のお家へ向かい、
そこでまず、宿題をみんなで終わらせる。
終わらせたら幼馴染のお家で遊んで、夜帰宅する、という流れを作ってくれた。
遊びに行くと家に無いおもちゃやゲームもあるし、幼馴染のお母さんがくれたおやつや軽食も美味しかったし、お母さんたちからすれば、分からないところを私が教えてくれるから助かる、と話していたらしい。
周りの助けを経て、私は小学校6年生になり、
姉は通信制高校に進んだことで、少しずつ外に出る機会が増えた。