幼少期の話。6 ■最高の仲間と親友とかくれんぼと…

中学校2年生になった。
S奈とYは別の棟、Cちゃんは別のクラスになってしまったが、K太とPはまた同じクラスになった。

他にもH美さん、Bちゃん、そして隣のクラスのNちゃん、まったりした性格のYMくんもいた。

基本皆どこかしらのグループに固定されていたが
私は
・H美、BちゃんのAB型グループ+Nちゃんで昼休みは遊び
・席順で近くなったH美さん、K太、YM君、そして私は割とボケーッとしていた為「天然家族」という最早ユニットのような関係にいた。
(最早K太のひとりツッコミ無双状態)
そしてかえりはCちゃんの部活がないうちは一緒に帰っていたが、Cちゃんも彼氏が出来たので、

そのうち、K太、IDくん、Tちゃん(♂)、TM、M花、Y子、そして4歳からの幼なじみで小6の時の仲良しグループにもいたT美、同じく仲良しグループにいたBちゃん(♂)というメンバーで
帰りに神社でかくれんぼや鬼ごっこ、たかおになど

小学生かっ!

とツッコミを入れたくなるような遊びで夜遅くまで遊んでいた。

時には21時近くなってしまって、母から大目玉を食らうこともあった。
当たり前である。まだ中学2年。
怒って当たり前だったが、

正直いって、怒られようが何しようが
大好きな友達たちと、笑って走って、
たまに寂しくてみんなでおしくらまんじゅうのようにくっついて(男女関係なく)話して寄り添って
毎日とても楽しかったし、青春だった。

よく道を踏み外さなかったな、と今でも感心するが
男どもは面倒見がよく優しいけど、奥手タイプばかりで、好きな子がいた子もいたが、進展せず、私はただひたすらにPくん尊い、、、で必死だったし
でも皆でむぎゅむぎゅと寄り添ってたもんで、
心は安定していたし、寂しくなかった。

後にIDくん・tちゃんを除いたこのメンバーは
それぞれが就職、結婚するまでは
定期的に集合するほど
「親友・幼馴染・仲良しグループ」として
良き相談相手、良き理解者として
確立するのであった。

┈┈┈┈┈┈┈┈┈

中学2年生。秋が終わり、そろそろ冬がやってくるね、というそんな頃。
母がC型肝炎で入院することとなった。
腹腔鏡手術を受けるためだ。
父は仕事で休みの日しか寄れないし、
姉はアトピーの調子は上がり下がりするものの、
バイトもするようになっていたので、
学校が終わって私が習い事のない日に
洗濯物を受け取りに行き、話して帰る、という流れだった。

手術は成功したが、この頃には母と祖母の溝は最大限に広がり、完全にさめきっていた。

術後は母は、私と姉に
「ごめんけどもうあの家には私帰らないよ」
と言った。
そう決めた母を私たちは止めることもできなかった。
決めたら曲げないのを知っていたし、考えに考えてのことだと分かっていたから。そしてなにより、母はもう耐えなくていいと姉妹揃って本気で思っていた。

父は戸惑っていたけど、姉と私と
何より母の「これ以上は無理」の意思で
母は退院後、電車で6〜7個離れた場所の
ウィークリーマンションへ住まうこととなった。

私も姉も実家以外のおうち、がちょっと秘密基地みたいで楽しんでいた。

父は帰りが遅いし、姉は学校の友達と遊んだり、バイトができるまでに回復していたので
割と遅くまで出ていたし、
私はひと通り家事はできるようになっていたので
自分のことは自分でして、週末母の元に足を運んだ。

年末年始は母のウィークリーマンションへ姉と向かい、おせちを食べて、姉と2人学業の神様で有名な某天満宮までワクワクしながら向かった記憶がある。

そんな生活は3月ごろまで続いたが、流石に金額も嵩むし、私も受験生になるから、と
私と母が中学の近くに2人暮らし、姉と父が実家で暮らすことになった。
自転車で20分くらいの距離。同じ校区内。
なんなら塀を登ったら中学、のレベルだった(笑)

そのマンションで過ごした時間は私にとって忘れられない時間となる。

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