僕が、僕でいられる勇気
年がすぎた。年末だから、一年の最後の日であるから特別な何かが起こるとは、もう思わない。いつも通り寝坊をして遅めの朝を食べ音楽を掛けながら本を読み、映画を何回もストップしながら見て。。。今の韓国は多分人生1番の寒さで外でのタバコもかなり大変でカイロをポッケっとに入れてアパートの団地の空気を少しだけ吸うこと。それだけの季節は感じる。しかし、365日中、私の人生30年あまりの中、一年の最後という日はなぜ人の心を留めてくるんだろう。相変わらずの2020年の1日が過ぎて行く。相変わらずの私がご飯を食べ眠ってからは起き、窓を少しだけ開いて風邪を感じる。外からは車の音がしたり宅配便のお届けの声が聞こえたり。有り触れる日常の繰り返し。でも、また一つの過去が生まれる。終わりで始まりの時。大したことではないけど、それが全てである日。12月31日はそれだけの記念日なんだろうか。残りわずかの20年の深い夜に、そういう如何しようも無いことを少しだけ考えていた。
2020年、と書いているが正確には2〜3年前から思ってたことが結びついた年ではあると思った。2年前ぐらい好きな本屋の閉店の知らせを耳にしてから、もしくはスペイン坂を漠然と歩いた日工事中のフェンスに囲まれたパルコから感じた寂しさからか、東京を残しておきたいと思った。その時の、当時の東京の空気、流れ、私が知り、私なりには長年付き合いさせてもらってた東京の時間を’記録’したいと思った。なぜか、その年は日本で年号が変わった年で、オリンピックに向けた興奮が動き出してあったり、渋谷ではスクランブル交差点を思い浮かばさせるように、ストリームが出来たり、向こうの9階の美容室で髪をやってもらいながら、私は時間が交差する現場に立ち向かってる気もしてた。少し大袈裟だけど。いつも人混みに溢れる渋谷で、9階からの高さで眺める夕日は、少し人をそういう気にさせる。日々高くなる一方のスカイランと、なぜか相次ぐサヨナラ。ある時間の始まりと終わり。矛盾だけど東京の現在形。そういう東京の時間。少し変わりはあるものの、昨年冬、初めての書籍「東京の時間記録者たち」が、出版された。
「東京の時間記録者たち」は、若き職人14名の方々を取材して書き下ろした内容である。でも、それは結果的な話で今思えば昨年私が出したその東京、時間、そして人への本は、今の東京を追い続きながら出会った、得られた物語だとも思われる。少し身近な古着デザイナーの日置さんもいらっしゃるが、興味ところか全然未知な、素人として出会い、学び、感じ、経験して完成させたストーリーが私の書籍の大半だ。家紋を現代的に解釈して作品作りをなさる肩や、ほぼ手作りでノートを生産されてる方、またお笑い芸人のシソンヌさんは、彼らの芸に笑われるようになるまではかなりの時間、YOUTUBEでの徹夜が必要だったリもした。そういう出会いとの作業。出会いと別れの話。2020年は、いまだに分からないが世界にはある終わりに気づかされるものが、多分ある。過ぎたものが教えてくれるもの、たまに未来になったりもするもの。年明けが過ぎてゆく。
いわばどうにもならないことを、どうにかしようとして、とりとめもない考えをたどりながら、さっきから朱雀大路に降る雨の音を、聞くともなく聞いていたのである。「羅生門」芥川龍之介
家での生活を、何もないような日々をあえて言うのなら、それは少し’時’を生きるようなものでもあると思った。ドラマでも放送された「レンタル何もしない人」は、何一つ私に共通するここが無くても私の話のように感じられたし、癌の宣告を受けてTwitterからの人生相談にのり、投稿者への回答で紡ぎ出された幡野広志さんのエッセイ「何で私に聞くんだろう 」は当事者には見えない彼らのことを、代わりに語ってくれてる様にも聞こえた。本人には知らない自分のこと、こういうのは実は山ほどあって、そこで明日が生まれたりもする。偶然、もしくは必然。新年もはじめ3日もたった今、私はまだ私が知らないが、それは、また一つの’終わり’が教えてくれるのかな。始まりの辺りで終わりを待つこと。ある静かな午後が通りすげてゆく。とあるフリーランサーの1年間の日記。
©️ へーダー写真 : 奥山由之
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