ダサすぎで、波でが出た。
10月2日、一つの時間が線路に墜落した。おそらく何100回は通りすぎた場所。歌舞伎町の小道をすり抜けて駅に向かってた私は、また捨てたい自分に会わせられたままであった。長くても5分は超えない列車はまだ来ておらず、イアフォンを着けていたせいで、訳がわからなかった。すでに十数分はすぎた時間と画面に剥製されたままの時間。憂鬱は溢れるほど多いものの、私は自分が持っている憂鬱がだんだん自分のものではないように感じられる。5時を少しだけすぎた時間と、間も無く6時を迎える時間、時間が閉じ込められている。
駅の職人と警察の方々はシートを敷いてバタバタする様子で、誰かは携帯をひたすらいじり、私はまだその小道を抜けられていなかった。タクシーを乗ると決めた人はフラットフォームから離れ、階段からはまた人々が溢れた水のように上がってくる。時間は不在で存在するものだと、ある小説で見たことがあるのだが、一つの墜落が一つの時間を落として去ってしまった。そして、私は時々、その穴を眺めて見ることがある。映画’宮本が君へ’を観た。’へ’に籠った時間を、一人ぼっちでダサくて惨めな美しい涙の時間を愛おしいと思いたくなっちまった。
*全文は以下の韓国語で書かれております。まだまだ日本語不足で、申し訳ない気持ちでございます。
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