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夕薄闇

7日間降り続いた雨が止むと、それまでが嘘のように晴天が続いた。
梅雨も明けていないというのに、日差しは夏のそれであり、空に浮かぶ雲の薄さが、かろうじてまだ夏が来ていないことを感じさせていた。

そんな、6月の下旬のこと。私は職場を去る後輩と飲みに出かけた。
明るく真面目な彼は、うまく職場になじめず少しずつ疲弊していき、心を病んでしまった。
復帰を目指して治療を続けていたが、限界と判断し、故郷へ帰ることになったのだった。
時刻は午後5時。しかし、まだ昼間のように明るい。

私たちはテラス席で向かい合いながら酒を飲んでいた。
私はビールを注文し、彼はハイボールを注文した。
「ハイボールっておいしいんですね」
ゆっくりとした動作でグラスをかたむけながら、彼は言う。
「君はいつもビールを飲んでいたからね」
「流れがありましたから」
久しぶりに会った彼は、私の知る彼とは少し違って見えた。
髪を短くしたという見た目の変化もあるが、そういった外見の変化というものでない。うまく言い表すことができないが、どこか「薄く」なったと感じた。

「Uさん」
「うん?」
「Uさんは……」
じっと私を見つめながら、何かを言いかける。その目がとても黒く、暗く、深く見えて、息をのむ。
「いえ、なんでありません。グラスが空ですね。注文しましょうか。何がいいですか?」
「じゃあ、ビールを」
「わかりました」
彼は店員を呼び、注文を伝える。
彼はハイボールではなく、カシスオレンジを注文した。
「いろんな酒を試したいんです」
そう言って笑う彼の表情は、やはり、どこか暗く感じられた。

飲み始めて2時間ほどたった。
「故郷へ帰って、これをしようみたいなことはあるのかい? 余計なお世話かもしれないけれど、気になってしまって」
「余計なんてことないですよ。僕のことを心配して訊いてくれてるんだなってことが伝わります。Uさんは僕が職場にいたころからずっとそうやって気にかけてくれてましたよね……」
彼はいちど言葉を切る。
「他の人とは、違いますよ」
少し間をおいて出てきたその言葉には深い悲しみが感じられた。
「……すいません、こちらこそ余計なこと言いましたね。向こうへ帰ったら、少しだけ休んで、知り合いのやってる小さな会社で働かせてもらうことになってます」
「そうか。新しい環境での再スタートだね」
「そうですね」
「無理はしないようにね」
「はい。ありがとうございます」

7時半になったころ、私たちは店を出た。
日は沈みかけているが、まだ夜というほど暗くない。
昼間の暑さは少し和らぎ、肌寒いそよ風が吹いていた。
「薄明っていうんでしたっけ。きれいですよね、この時間帯」
沈みかけの太陽を見ながら彼はそう言った。
「……Uさん」
薄明の空を見つめたまま、彼は言った。
「今、生きてるって感じますか?」
感情の一切が抜け落ちたような声だった。薄明の作り出す濃い影が彼の表情を覆っていて、どのような顔をして彼がその言葉を発したのかもわからない。
「それは、どういうことだい?」
彼は答えない。

どれくらい間があっただろう。それほどではないはずだ。けれど、私にはその間がおそろしく長く感じられた。
「……変なことを訊いちゃいましたね」
私の方を見て、彼はそう言った。
「長々とすいません。今日は楽しかったです。本当に、お世話になりました」
彼の声はいつも通りだった。それが余計に恐ろしさを加速させる。
「なにかあったら、いつでも連絡してきてくれていいからね。本当に、どんな些細なことでもいいから」
一瞬泣きそうな表情を浮かべ、彼は頭を深々とさげた。
「ありがとうございます。いつか、また」

彼と別れ、私は帰路につく。
影に隠れた彼の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
立ち止まり、私は振り返る。
血のように赤い太陽はもうほとんど沈んでいる。
薄明が過ぎ、夕闇が来る。
私は背中に冷たいものが這うのを感じ、急ぎ足で家へと急いだ。


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