「Musique Epave」ツアー(1984年4月20日~5月6日)チラシ
「Musique Epave」ツアー(1984年4月20日~5月6日)チラシ
●Musique Epave ツアースケジュール(チラシの記載に準じます)
DC: The Durutti Column (Vini Reilly, Bruce Mitchell)
WT: Winston Tong & Niki Mono
Mkd: Mikado (Pacale Borel, Grégori Czerkinsky)
招聘・企画: (株) UPU、協賛: 小谷電機株式会社、制作: (株) Moon Office
4月20日(金) 東京・原宿「ピテカントロプスエレクトス」 DC, WT
4月21日(土) 名古屋「雲竜ホール」 DC, WT, Mkd
4月23日(火) 大阪「バナナホール」 WT, Mkd (Guest: After Dinner)
4月24日(水) 大阪「バナナホール」 WT, DC (Guest: Shinobu)
4月26日(木) 富山「富山県教育文化会館」 DC, WT, Mkd (Guest: Cockc' Nell)
4月28日(土) 東京・渋谷「渋谷公会堂」"オタリ・コンテンポラリー・サウンド・アドバンス" DC, WT, Mkd (Guest: 水族館オーケストラ, Mio Fou)
4月30日(月) 福岡「都久志会館」 DC, WT, Mkd
5月2日(水) 原宿「ピテカントロプスエレクトス」 WT, Mkd
5月2日(水) 東京・六本木「インクスティック」 DC (Guest: Pale Cocoon)
5月3日(木) 東京・六本木「インクスティック」 DC (Guest: Funeral Party)
5月4日(金) 東京・原宿「ピテカントロプスエレクトス」 Mkd, DC
5月6日(日) 東京・原宿「ピテカントロプスエレクトス」 DC, WT, Mkd
「Musique Epave(ミュージック・エパーブ)」は、1984年春に行われた、ベルギー拠点のレーベル、クレプスキュール Les Disques Du Crépuscule から作品をリリースしているドゥルティ・コラム The Durutti Column、ミカド Mikado、ウィンストン・トン&ニキ・モノ Winston Tong & Niki Mono、3組の合同ツアーです(正確には、ドゥルティ・コラムは、前身の Factory Benelux からのリリース )。招聘・企画の(株) UPU(ユーピーユー)は、京都大学など関西の大学新聞連合(ユニバーシティ・プレス・ユニオン University Press Union)を母体に、この年、1984年に設立されたばかりの就職斡旋会社。後に、浅田彰氏、伊藤俊治氏、四方田犬彦氏らの責任編集で発行されていた雑誌『GS たのしい知識』を冬樹社から引き継いだり、『エスクァイア日本版』、『i-D JAPAN』などの雑誌を発行するなどしています。
1984年当時、UPUがどのような会社かは知らなかったのですが、「job & life magazine」と銘打った就職情報誌「What Next?(ホワット・ネクスト)」を出していたことから、就職斡旋が本業なのであろうということは察せられました。
その「What Next?」1984年10月号に、ドゥルッティ・コラムのヴィニ・ライリー Vini Reilly のこの来日時のインタビューが掲載されています。「とにかく気になる◎百人(34) ヴィニ・ライリー 「ドゥルッティ・コラムの帰還」ぼくは、真にアナーキーでありたいと思っている」(インタビュー・構成/岡崎紀子、写真/秋葉哲也、1984年4月28日収録)です(冒頭の写真は、この記事に掲載された秋葉哲也氏撮影のものです)。
このインタビューで、ヴィニ・ライリー氏は、このツアーについて、「とても楽しかった。(中略)それぞれ三つの各グループは均等にチャンスがあたえられていた。サウンドチェックにしても、演奏時間にしても、皆平等だった」と、メイン、サポートの区別がなかったと語っています。日本については、それまで持っていたイメージから「一瞬不安がよぎった」そうですが、「日本に来て一番驚いたのは、ぼくが日本の人々に受けいれられたということなんだ」「日本の人たちと気楽にコミュニケイトできたし、ぼくに忍耐強くつきあってくれた」と好印象を持ったことが話されています。
インタビューでは、曲作りについて、ドゥルッティ・コラムというバンド名の由来についても語り、「アンチ・インダストリー、アンチ・ビジネス」のオリジナルなパンクの立場を表明するものとして、「静かでパーソナルなギターの曲」を収録したアルバム "THE RETURN OF THE DURUTTI COLUMN"(1980年1月発売)を作ったと話しています。
このツアーは、さまざまな副産物を生みました。まず、1984年4月28日(東京・渋谷公会堂)、5月3日(東京・インクスティック)での演奏を収録した映像作品『MUSIQUE Epave 漂う音楽』です。
次に、ドゥルッティ・コラムのシングル "ささげもの Dedications for Japan"(1984年7月25日発売)。日本でのツアーに対してリリースされたもので、「この演奏は、日本に捧げられる。決して忘れられない愛、友情、美と出会ったこの地に。」として、出会った人々の名、(株) UPU、小谷電機株式会社(現オタリ株式会社)への感謝が記されています。前掲インタビューのインタビュアー、岡崎紀子さんの名もあります。B面に収録された "ノリコ For Noriko" は、岡崎さんに捧げられたものでしょうか。
ウィンストン・トン&ニキ・モノ Winston Tong & Niki Mono の、日本でのコンサートでも演奏された "Theoretical China" シングルのB面に収められた "The Hunger" は、滞日中に録音されたもののようです。ウィンストン・トン、ニキ・モノと共に三味線奏者の鈴木淳雄(五代目常磐津文字兵衛)氏、キーボード奏者で作曲家・編曲家の門倉聡氏がプロデュースにあたり、日本のミュージシャンが演奏を務めています。
最後に、ドゥルッティ・コラムのライヴアルバム "どうもありがとう domo arigato: live in japan"(1985年10月1日発売)。1985年の日本公演の模様を収めたものですが、2017年発売の拡張版に、1984年4月29日、the Loft Club (Tokyo) で録音された演奏が8曲、収められました。4月29日は、チラシ掲載のスケジュールにはなく、この時期の「ロフト」と言えば、「新宿ロフト」ですが、20周年記念で発売された『ROCK is LOFT: HISTORY OF LOFT』(LOFT BOOKS、1997年7月)に掲載されているスケジュールにも記載がありません。追加公演だったのでしょう。
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