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ジェンダーレストイレ廃止〜「同じ」とは何か?〜

歌舞伎町に造られたジェンダーレストイレが廃止されたようです。
まぁそらそうでしょうと言ったところでしょうか。

男女関係なく入れるということで、個室はパパ活や立ちんぼなんかの活動に使われていたとかなんとか。

僕はずっと言っているのだが、ジェンダーレスにはいささかの疑問がある。
あくまで性的マイノリティを認めないとか、同性のお付き合いがダメとかそういうことではない。
生物学的な男女は否定できないと思っている。

生物学的なオスメスは遺伝子で決定していて、それは性転換手術をしようがどうしようが仕方のないことなのだ。基本的にはY遺伝子を持っていたらオス、持っていなかったらメスだ。性染色体異常があっても基本的にはこれで分類される。

LGBTQを認めろという昨今の風潮があるが、それは全然構わない。
ただ、LGBTQはあくまで生物学的オスメスの下層にあるもので、生物学的オスメスと同じ階層の話ではないということだ。レイヤーが違うのだ。

なぜかというと生物学的なオスメスでその能力を使うかどうかは別として、できることとできないことがあるのだ。僕がいくら頑張っても子どもを出産することはできない。

ジェンダーフリーやLGBTQ、フェミニズムなどを訴えている人たちに考えてほしいのは、遺伝子で規定されている生物学的なオスメスは覆せないということと、生物学的なオスメスを全く同じように扱うことは不可能ということだ。
生物学的に遺伝子が違うと生き物として結構違うのだ。
僕は自分と他人でも違う生き物と思っている。だから全部が全部分かり合えるとは全く思っていない。全く違う生き物なのに一部でも分かり合えるところがあるから尊いのだ。そういう考えだと「どうして私の考えをわかってくれないの!」みたいなヒステリーは存在しないのだ。そもそもわからなくて普通だからだ。
みんな「同じ」ということをどう定義するかというのは考えたほうがいい。

同じを切り取るのに階層がある。
一番小さい切り分け方が個人個人だ。固有名詞で切り分けるところになるだろう。
その上にオスメスであったり、ホモ・サピエンスであったり、霊長類であったり、哺乳類であったり、生き物であったりするのだ。
どこで切り分けるかで「同じ」というものは変わってくる。
トイレや公衆浴場などでは原則生物学的なオスメスで分けるのが妥当だと考える。あくまでこの階層までで「同じ」ものを「同じ」とするのだ。LGBTQはそれより下の階層なので考慮しない。これを考慮すると多くの性別でお風呂やトイレを分ける必要があり、現実的ではない。この世から銭湯や温泉は消え失せるだろう。
逆にホモ・サピエンスで括れば混浴ということになるだろう。海外みたいに水着で入るようにして、そっちに振り切ってもいいかもしれない。ただ、日本の温泉や大衆浴場の文化は失われるがそれはそれで仕方ないのかもしれない。江戸時代までは混浴が基本で売春も横行していたと言われている。それを残すのがいいのかと言われたらそうとも思わないので、やはり時代によって変化していくものなのだろう。

ジェンダーレストイレはこの切り分けを失敗した事例と言えるだろう。
正直いいことはほぼなかったと思う。
強いていいことがあったというならジェンダーレストイレがダメだということを実証したことだろう。これからはこの事例を引き合いに公衆浴場の男女は生物学的なオスメスで分けるべきだとか言いやすくなったと思う。

多様性を認めようという文化は結構なことだと思う。しかし、多様性を認めるからこそこの場合はここまでを「同じ」とするというライン引きをしっかりしないといけない。それを万人に周知しないといけない時に、この時はこのライン、この時はこのラインといっぱいあると理解できない人が出てくる。
やはりわかりやすいところで生物学的なオスメスというラインをベースに物事を考えるべきではないだろうか。

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