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  父が娘に語る経済の本

                著:ヤニス・バルファキス 訳:関美和

 
 著者はこの社会を「市場のある社会」ではなく、「市場社会」と評する。   全ての物を価値で換算し、価値が金額で表示されるのが、市場社会と著者は書いている。

 少し話が外れるかもなんですが、私達は、生まれた時からこういった考え方に毒されているためにか、何にでも価値や意味や目的を見いだしたがっているように思う。そして、表示できた価値の数字の大小、意味や目的に判断を委ねすぎてないかな、と思う。

 この世に生まれた目的は? とか、自分が生きる意味は? とか、そんな問いに世の中が溢れているのは、全てのことを価値で換算する、そんな風潮を受けているから、というようにも思える。
 勿論、これらの問いの背景にあるのは、生きにくさなんだろうなということも感じてはいる。色々、大変な経験をしているから、というだけにとどまらず、生きてるだけなのになぜかしんどい、といったこともあるんだろうと想像する。

 話を戻します。価値が金額っていう数字で計れるのは、時に便利です。高い物=質が良い物っていうのは間違いばかりじゃありません。それに、私のように見る目の無いものにとっては、金額っていう数字で価値を計れるのは楽です。迷ったら、金額のいい方を買っとけば間違いないか、みたいな・・・

 でも、市場で物の価値を計るのは、そもそも交換を目的にしているからです。

 人生とか、生きることの価値を計るって、そもそも無理があるんじゃないかな? 人生とか、体験って何かに交換するなんてできない、自分だけのものです。そこに意味があるかどうかは、個々がその体験にどんな意味を見いだすか?ってところにありますし、目的なんて最初は無かったけどあとから生じてくるなんてことはよくあることです。

 著者は終盤、こんなことを書いています。

 本物の幸福を味わえる可能性のある人生とは、何者かになるプロセスだ。

 この世に私達を送り出した神様は、私達に「体験」という人生を与えてくれる。体験は楽しいことばかりじゃありません。思いがけず辛い、かなしい体験に遭遇することもあります。
 辛く、かなしい体験は、私達が何かに気づける機会なのかもしれません。何かを変えねばならない時なのかもしれない。
 そんなプロセスのなかでも幸福を見いだすか否かは、個々にかかっているのかもしれません。

 えらそうなことを書きましたが、これ、自分に向かって言ってます(笑)

 

 

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