少年に返る人
ゆきひら
苦しそうな肩呼吸をしながら、Iさんはにっこり笑みを浮かべて、私に礼を言った。
「ありがとな・・・ 今日も無事に風呂に入れた・・・ 週に2回・・・ 風呂に入れる・・・ 幸せ・・・」
SaO2(酸素濃度) 69%。 裸で車椅子に座る、Iさんの呼吸介助に私は必死だ。Iさんの呼吸に合わせて横隔膜を押し下げる。目標は90%。この間、10分程度だろうか。肩を上下させながら、Iさんはずっと目を瞑っておられる。
80代のIさんは肺が悪く、自宅でもずっと酸素を吸っておられる。週に2回、シャワー介助するのが私達、訪問看護師の役割だ。
ようやく、酸素濃度が目標近くに達する。途中、休憩を何度か入れつつ、着替えを済ませ、ソファに座って頂く。
私は、浴場や洗濯物を片付け、記録する。他愛ない談笑の後、
「私、もう帰りますね。何かあったら連絡くださいね。」
そう声をかけて立ち上がる。
「また、来てよ。あなたが来てよ。待っとるでね。」
そう言って、通り過ぎる私の手を握り、甲にキスをする。キスした甲に頬ずりする。
この日は、奥様がデイサービスに出ており、留守だった。奥様がいないと、いつもこんな調子だ。いやらしい感じはしない。少年が母親に甘えているような、そんな感じだ。可愛い、とさえ思える。
「元気なときは悪いこともしたよ。同じ仕事の女の子を車に乗せて、あちこちドライブしたりして・・・」
片目を瞑り、人差し指を口元に立てて、内緒な、と小声でつぶやいたことがあった。
「男は死ぬまで子供。女は生まれた時から大人。」この台詞、誰のだっけ? その通り、と思う。
思えば、夫はこういった素振りを見せる人ではなかった。いや、私の前では出せなかったのかもしれない。私がそれを出すのを許さなかった??のかもしれない。
愛は私のなかにある。今は行く先を失い、どこに向ければいいか分からないでいる。
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