王永江 Wang Yong-jiang(1972~1927年)
清末および張作霖地方政権における文官。金州出身。
字は峨源、号は鉄。商家の番頭の子として生まれた。科挙の秀才資格を得たが郷試に落第し続け、同様の境遇にあった袁金鎧の知遇を得る。1900年に歳貢資格を与えられて以後の受験を断念。1904年、日露開戦に伴い、日本軍の軍政下に入った郷里で日本人と協力して南金書院公学堂を創立するも退職。袁金鎧の要請によってまとめた、日本の警察制度についての報告書が評価され、遼陽の警察教育・行政から官界に入った。辛亥革命時には趙爾巽東三省総督の命で遼陽・鉄嶺の革命派鎮圧に赴いたが、張作霖軍と日本兵の出動により任務遂行は不要となった。
民国成立後は遼陽・牛荘・海城などの税捐局長を歴任し、一六年に袁金鎧の推薦で張作霖地方政権における奉天医務処長、ついで全省警務処長兼警察庁長に就任。馬賊時代から張作霖の盟友であった湯玉麟の専横を一掃し張作霖の信任を得て、翌年財政庁長となり、赤字を解消して「理財能手」と張作霖から絶賛された。1922年に第一次奉直戦争で奉天軍が敗北すると、張作霖を北京政府から独立させ、自身は代理奉天省長として軍縮による財政再建・社会基盤整備などに尽力し、地方行財政の確立と安定を目指した。王永江の反対を押し切って張作霖が第二次奉直戦争を始めるまでの二年間は、中国
全体の混乱や軍事勢力間の闘争に極力関与しない王の基本方針「保境安民」策が尊重されたと考えられる。
1925年の郭松齢事件で自殺未遂事件を起こした張作霖に代わり政権を運営し、一時は郭への政権譲渡も構想したが、日本軍の介入を受けて断念。1926年の善後会議で、財政再建のため張作霖の個人的な機密費返上を迫ったのが一因となって張と対立し、持病の治療を理由として政界を引退。1927年、金州で病死。著作には『医学輯要』『読易偶得』『易原窺余』『鉄龕詩草』などがある。
[参考文献]
田島富穂「王永江を語る」(満洲回顧集刊行会編『ああ満洲国つくり産業開発者の手記』所収、農林出版、1965年)
金鱗級「王永江別伝」(唐文権ほか編『辛亥革命人物碑文集』四所収、団結出版社、1991年。初出は『吉林文史資料選輯』四、1983年)
澁谷由里『「漢奸」と英雄の満洲』(講談社選書メチェ、2008年)
—— 二〇世紀満洲歴史事典(澁谷由里)