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八月逝く ——田中 明

冬扇房閑話—『現代コリア』平成16年(2004年)8月号より 

 五十九年前の八月十五日、多くの犠牲を払ったすえ、日本は戦いに敗れた。玉音放送を聞いたときの、軍装を透した日射しの強さは、いまも私の肌を灼いている。 あれから私は八月を「鎮魂の月」と思い定めてきた。そう思いながらも、あの戦いに散った人々の魂は、品下れる現在の日本の姿をどう見ているかと、心落ち着かぬものがある。
 八月になると、ブルースの女王と言われた淡谷のり子の回想談を思い出す。戦争末期、特攻基地へ慰問公演に行ったときの話である。
 開演の前に、案内の士官から「きょう聴きに来る者のなかには、出撃要員がおります。歌の途中で中座することになりますが、御了承下さい」と言われていた。会場に入ると、兵員の多くは、まだ少年のあどけなさを残した若者だった。「こんな子までが」と、彼女は思ったという。歌っている途中、席のあちらこちらで、ポツリポツリと立ち上がった兵隊が、舞台の彼女に敬礼をすると、身をひるがえして出て行った。言うまでもなく、特攻に出撃するのである。
 それを見ていた淡谷のり子は、働突した。「私はプロの歌手として、舞台で泣くようなことは、絶対にしてきませんでした。でもきょうは許して下さい。泣かせて下さい」と言ったという。そうだったのか、と私は感動した。
淡谷のり子という歌手は、戦時歌謡を歌わせようとした当局の圧力にもめげず、時勢に合わないブルースを歌いつづけた頑質の女性である。彼女は戦時女性風の服装で歌わせようとした軍の意向を無視して、派手なドレス姿に固執した。兵隊さんはその方を望んでいる、という自信があった。
 そんな彼女が、出撃する少年兵の姿を見て、みずからに課してきた禁を破り、舞台で慟哭したのである。それは軍国主義が嫌いとか(被女はそうだった)好きとかいう次元のことでは ない。そんな分別が割り込む余地など、そこにはない。死地に赴く若者に、彼女はただただ腸を断つ思いで泣いたのである。ブルースの女王と特攻兵は、「共に」日本を生きていたのだ。
 やはり十年以上前のことだが、「朝日新聞」が「戦争」という題のシリーズで、戦時中の 短い経験談を読者から募集したことがあった。そのなかの「戦災」という章で、私は思わず 「おおー」と声を上げた手記に、一週間のうち二度も出くわした。
 爆撃に遭って親とも離ればなれになった少女の話である。被女が茫然と焼け跡にしゃが んでいると、通りかかった小母さんが、「食べなさい」と言っておにぎりをくれたというのである。 戦争末期の飢えを知っている私には、おにぎりがどれほど貴重なものかが分かる。その人が大事なおコメの食糧を惜しげもなく、見ず知らずの子供に与えたのである。私にもそれができるか、はなはだ心もとない。
  感動をもってそれを読んだ私は、一週間もたたぬうちに、もう一度同じ経験をした人の文章に出会って胸を衝かれた。あのころは、そうした無償の思いやりが、あちらこちらであったのだ。
 こういう話をすると、「そのくらいのことは、自分にもできる」という人があるかも知れない。だが、飢えと隣り合わせにあった時期のその行為は、豊饒な日常のなかで「自分の困らぬ範囲で、他人に親切をしたがる」それとは違うのである。 あのころ日本の土壌には、「共に生きる」というつながりにもとづく美しいものがあった。いま、それはない。

 とすると、鎮魂は個々の人に対してだけでなく「かつての日本」という国の魂もまた鎮めなければならないのではないか。敗戦によって、日本という国も死んでいったのだから。もっとも戦いが終わったからといって、日本がそこでただちに死んだわけではない。苦しい日々の中で、日本はいろいろと醜い姿をさらしはしたが、それでも多くの日本人は、歯を食いしばって生きた。当時の写真を見ると、虚脱した顔もあるが、なお引き締まった相貌を維持している人が少なくない。そこには、いまのように贅肉をもてあまし、全身の筋肉を弛緩させたような姿はない。倫理の香がまだ保たれていた。
 だが、それは長続きしなかった。日本を骨抜きにすることについては、対立する米ソも歩調をそろえていた。力を背景にした彼らの思想工作のシャワーを浴びながら、われわれは第二の敗北(戦闘のそれよりはもっと深刻な)を、敗北と意識することもなく受け入れてきた。かつては想像もしなかった豊饒のなかに、安住することによってである。
 そうして、われわれは良き日本を殺してきたのだ。経済発展の階段の下には、その一段ごとに旧日本の屍が埋まっている。そのことに、われわれは目をそむけてきた。だから鎮魂の儀は、そうした日本に対しても行なわれなければならない、と私は思うのだ。
 寺山修司の絶唱とも言うべき短歌がある。聞けば、それを覚えているという人が少なくない。

  マッチ擦るつかのま海に霧ふかし
  身捨つるほどの祖国はありや

 聞くところによると、フェミニズムを説いて倦まぬある女性論客が、「国家は超克否定すべきものだ」とする議論の材料に、この歌を引用していたそうだ。ずいぶんお粗末な感性だ、と言わざるをえない。
 彼女には「身捨つるほどの祖国はありや」という反語の重みが理解できないのだ。もしそれが、彼女の解釈のように「身を捨てるほどの祖国などというものはない。だから国なんてものにこだわるのは愚だ」といった平板な発語に過ぎないのであれば、前半の五七五は要らないであろう。
 「マッチ擦るつかのま」の光芒 それは「身を捨てても」尽くすに値するものを求めようとする、ノズルから噴出するような作者の情念のほとばしりであろう。だが、眼前に映し出されたものは、それを遮る厚い霧である。作者はみずからの飢渇と現実の不能とに挟まれたなかで、身じろぎもならず、「身を捨てるに値する祖国はないのか」と叫んだのだ。 作者にとって、そうした祖国は、現存しないがゆえに、一層追求されるものだった。
 この歌が人のこころを揺さぶるのは、そうした身をねじるような情念がうたい上げられているからである。フェミニスト女史たちが語る天下太平な〝思想〟に見合うような、安っぽいものではない。
 もっとも平和に慣れきったいまの日本では、そうした天下太平でもすむのかも知れない。人はおのがじし勝手なことをうそぶいても、安全な境遇を保証されているからである。
 しかし、戦争の時代はそうはいかない。そこでは多くのものが失われ、周知のように、あまたな悲劇が生まれた。
 「悲劇」というのは、人智人力ではどうしようもない「運命」を引き受けた(あるいは引き受けさせられた――この場合、両者に差はない)個人の上に現れるものである。それはもはや神の所管に属する現象と言ってよいものであろう。そのことは、俗な日常性のなかでは窺えぬ高貴なものが、そこに浮かび出ていることによって証せられている。
 いまのわれわれは、そうした高貴性から遠ざけられたところで生きている。そしてもっぱら悲劇を回避することを喋々しながら、いまなお絶えることのない他所の国の悲劇を見物しているのが実態である。だがそのために、悲劇に感応できる能力まで失っていくとしたら、みまかった魂は悲しむことであろう。
 この八月、老耄の身としては、酷暑に翻弄され、洪水のようなオリンピック報道に参った。大挙アテネに繰り出した応援団で、大の大人までが顔に日の丸のワッペンを貼って歓声を上げているのを、テレビで見せられていると、「平和はいいね」とばかり言っておれない気がしたものである。だが、その八月も逝った。乱された鎮魂の儀を心静かに行ないたいものである。

底本:『遠ざかる韓国 —冬扇房独語—』(2010年、晩聲社)

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