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蒙古高句麗(むくりこくり)、日本を攻めようとする——和漢三才圖會卷之十三

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本文—『和漢三才図会』巻十三 異国人物(東洋文庫456、寺島良安著、島田勇雄ほか訳註)より

 蒙古〔北狄〕は宋朝を討ち取り、大元国と名を改め自立して中華の王となり、世祖皇帝と号した。彼は高麗を道案内として日本を討とうとし、先に書を日本に送ってきた。〔わが国の龜山帝の文永年間(1264~1275)のことである。〕

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 「大蒙古皇帝が書を日本国王に奉る。朕惟(おも)うに古より小国の君も境土を相接すれば、尚信を講じ、睦を修めんと努める努のである。況んやわが祖宗は天の明命を受けて区夏(中国)を奄有(しはい)しているのである。遐(はる)かな方の遠城で、威を畏れ徳に懐くもの多く、悉く数えることもできないほどである。朕が即位の初、高麗の無辜の民が久しく鋒鏑(せんそう)に瘁れているをみて、兵を罷めさせ、その疆域(こっきょう)を還させ、その旄倪(ぼうげい:老人と子供)を返させた。高麗の君臣は感戴して来朝した戴義は君と臣であっても、歓は父と子のようであった。多分、王の君臣もまた已にこのことを知っているであろう。高麗は朕の東藩である。日本は高麗と蜜邇(せっきん)し、開国以来、また時には中国とも通じているが、朕が躬(み)になってからは一乗の使さえも遣わして和好を求めようとはしていない。尚まだ王の国はわが国を審らかに知らないのではないかと恐れる。故に使を遣わし書を持たせて朕が志を布告するものである。冀(ねが)わくば今より以後、通問して好を結び、もって相親睦せんことを。且つまた聖人は四海をもって家とするという。相通好しないのは、どうして一家の理でありえようか。兵を用いるような事態に至るのは、どうして好むところでありえようか。王よ、このことをよく考えて返事をするように。

 高句麗の書〔つまり高麗である〕 使者は潘阜という名である。
 「我が国は蒙古の大国に臣として事(つか)えてから正朔(こよみ)を稟(う)けて年が経つ。皇帝は仁明で天下をもって一家とし、遠きを視ること邇(ちか)きが如くである。日月の照らすところ、咸(みな)その徳を仰ぐ。いま好を貴国に通じようとして、寡人(わたし:高麗王のこと)に詔して次のようにいう。日本と高麗とは隣り合っており、典章も政治も嘉とするに足るものである。漢唐以来、屢、中国と通じている。故に特に書を遣わす。もって往け。風濤の阻険なのを理由に辞退することはならぬ、と。その旨は厳切である。茲に已むを獲ず、その官の某を(貴国)に遣わし、皇帝の書を奉る。これまで貴国は中国と通好しなかった代はない。況んや、今、皇帝が貴国と通好しようとするのは、その貢献を利するためではない。思うに、偉大な名を天下に高からしめんと欲しているからである。若し貴国の通好を得たなら、必ず厚遇するであろう。その一介の使を遣わして往って蒙古の国を観られたら如何であろう。貴国よ、よくよく思慮せよ。」
 その書簡は甚だ無礼であったので返書しなかった。以後、使者は三回来たがみな追い返した。蒙古は大いに憤り、急ぎ兵船九百艘を仕立てて日本に攻めてきた〔後宇多帝の文永十一年(1274年)〕。

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 蒙古軍の大将
  忽敦〔都元帥〕 洪茶丘〔右副元帥〕 劉復亭ママ(亨)〔左副元帥〕
 高麗の三翼軍
  金方慶〔中軍〕 朴之亮金忻〔知兵馬事〕 任愷〔副使〕
  金佚〔左軍使〕 章得儒〔同〕 孫世貞〔同〕
  金文庇〔右軍使〕 羅裕朴保〔同〕 潘阜〔同〕
 蒙古軍二万五千 高麗軍八千〔梢工水手六千七百〕
 船は(朝鮮半島の)合浦を出発し、十一日を経過して壱岐島に至る。相戦い復亭ママ(亨)は流矢に中たり、遂に兵を引いて船に還った。たまたま夜に大風雨がおこり、戦艦は厳崖に触れて大破した。金佚は水に流されて死に、残党は逃げ去った。その還らざる者、無慮(およそ)一万三千五百余人。
 翌年〔建治元年(1275)〕、蒙古の使者、杜世忠および高麗の使者が来たが、鎌倉で杜世忠を殺し、これをさらし首にした。

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 同ママ(弘安)四年、蒙古の阿刺罕(アリハン)・范文虎は蛮軍十万を率いて江南を発し、(洪)茶丘・忻都は蒙・麗・漢の四万の軍を率いて合浦より出発。高麗の金方慶・朴球・金周鼎などは二十四日して日本世界村大明の浦*(対馬の佐賀村、現在の下島上県郡にある村の浜辺)に到達した。
 伊勢へは勅使が派遣され、また諸社への祈願も盛んに行われた。北条時宗は鎌倉にあって筑紫の武士に命じて防戦体制をとらせた。蒙古軍は壱岐島に至り、船軍になった。風に遭い、百十三人、梢工(かじとり)三十六人が行方不明となった。かくて筑紫に上陸。既にして力戦相励、倭兵は突進し蒙古軍は大いに潰(やぶ)れた。茶丘は馬に乗って走り逃れた。

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 翌日、復た戦って蒙軍は敗績し、軍中では疫病がひろがり死者およそ三千余人。忻都・茶丘らは塁(しき)りに戦ったが利がなく、かつ阿刺罕は途中で病に罹ってその軍勢は来られず、范文虎の率いる軍勢も期を過ぎても筑紫に到らず、みな狼狽した。程なく范文虎は戦艦三千五百艘、蛮軍十余万をもって八月朔日に到着したが、適(たまたま)大風に遇い、みな溺死し、屍は潮汐に随って浦に流入。浦はこのために塞がれ、屍を践(ふ)んで行くことができるほどであった。

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 茶丘・范文虎などは逃げて行方不明。生慮三万人は八角島(はかた)で悉く斬殺された。ただ、干閶・莫青・呉万五の三人だけを、「汝らはよくよくこの有様を本国へ還って語れ」と言い含めて国へ還した。再三の大風はおそらく伊勢の神風であろうとし、また風社には勅によって風宮と号を賜った。

 世に伝わる蒙古〔無久利〕高句麗〔古久利〕合戦とはこれである。〔蒙古とは大元のこと〕。その後、大元は大明のために滅ぼされてしまった。

 注* 日本世界村大明の浦 池内宏博士によれば、元や高麗の史書で佐賀を訛って世界村と書き、宗像大明神の社があったところから大明の浦としたのであろうとされる。また、『対馬島志』ではこれとは別に、下島上県郡仁田湾岸の志多留であるとする。

底本:『和漢三才図会 3〔全18巻〕』東洋文庫456 1986年4月10日 初版1刷発行(平凡社刊)

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