大人と子供の境界線
年を重ねるにつれて嘘が上手くなった、と思う。
空気を読むということを学び、自分以外の誰かのために嘘をつくこともあると知った。
だんだん察しも良くなり、相手の嘘を見抜くことだって可能になっていくはずなのに、見抜く力よりも嘘をつく力の方がより身についてしまっている気がする。
昨年社会人になり、さらにペースを速めて嘘をつく力を身につけていった。営業という職業柄か、小さな嘘を重ねることが多い。それは相手を陥れるためでも傷つけるためでもなく、ただお互いに気持ちの良い関係性を築くためのものでもあり、相手を安心させるための言葉でもあった。もちろん中には自分を守るための嘘だってあった。
嘘をついている自分に気がついた時、ふと我に返り悲しくなった。でも大人はこうしないと上手く生きていけないし、誰かのための嘘なんだ、それにこんなことはみんながやっていると信じ、自分を正当化しようとした。そんな自分に気づき、また悲しくなった。
恐ろしいのは、嘘にも慣れがあるということだ。
はじめは嘘をつくことに抵抗があったし、嘘つきは泥棒の始まりだと子供みたいに自分自身を冷たい目で見たこともあった。しかし時間の長さに比例するように嘘をつく回数も増え、そして慣れていった。
嘘が上手くなることが大人になることなのか。
かつてあんなに大人になりたいと夢見ていた私はこんなことを予想しただろうか。嘘が上手くなっただけで、大人になったと感じているわけじゃないし、大人になったと感じる方法が他にもたくさんあるのは分かっている。
そもそも大人になったなんて言葉は大人は使わない。もうすでに年齢的には大人に分類されるであろう私が、こんな風に感じること自体、"大人として" 変なのかもしれないし、大人とか子供とか、そんな曖昧な境界線にわざわざ意味を見出そうとしている時点で間違っているのかもしれない。
ただ、少しだけ悲しかった。何も疑うことを知らず、純粋な、瞳に見えるものも見えないものも全て信じられたあの頃から、相手の口から出た言葉を真っ直ぐに受け取れたあの頃から、変わってしまった感じがした。今では目に見えたものさえ疑ってしまうし、相手の言葉の裏を見ようとしてしまう。
自分も嘘をつくようになるし、相手もそうだと分かっているから疑ってしまう、負のループが起きている。
でもこればっかりはしょうがないのかもしれないし、こんなことを考えてしまう私はまだまだ子どもなのかもしれない、と思う。
たまに振り返ると、思うことはたくさんある。
今日はそんなことを書いてみました。