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手話を勉強する聴者と共有したいこと

8月も下旬に差し掛かりました。

福祉や障害にスポットが当たる時節柄、東京オリパラ開催年ということで、手話に出会う人が他の時期に比べて多いかと思います。

今日は、コミュニケーション学を専攻する学生として、手話を勉強する聴者として、心に留めていることを紹介します。特に、手話を勉強している聴者仲間と共感できたらいいなぁ、と期待しながら書いています。


#DeafTalent

ご存知ですか?

2015年1月、アメリカのソーシャルメディアのトレンドになったタグです。

これは、とあるドラマの主要キャストとして起用された女優が、手話やろう者のコミュニティでの何かしらの経験を積むことなく”ろう者役”を演じたことに端を発しています。
この出来事に対してろう者らが「ろう者役はろう者がやるべきだ」と主張しました。このハッシュタグは49日間にも渡ってトレンドに上がり続けたのです。


「ろう者役はろう者がやるべきだ」

どう思いますか?


ここでCultural Appropriationの概念を紹介します。
日本語では「文化の盗用」と訳されます。ある文化に属する人が、他の文化を搾取することです。

余談ですが、この用語は私の出身である知財畑でも度々耳にしていたこともあり、個人的には割と身近に感じている単語です。


#DeafTalent は、ろう文化の盗用を止めるように啓発するための運動の1つだったと個人的には解釈しています。ろう者の文化をろう者ではない人(つまり聴者)がその一部に関わったり学習することは異文化交流の範疇ですが、それを”消費”した瞬間、それは文化の盗用となると思います。

なぜ、ろう者役を聴者が演じることが文化の盗用であり、消費であると解釈するのか。

それは、ろう者役を聴者が演じることで、”報酬”を手に入れるのは聴者だからです。

ここでいう報酬は、金銭的なもの(ギャランティ)だけではなく、人気とか知名度とかも含みます。


日本国内にはろう者という属性を持ちながら俳優活動をしている方がいらっしゃいますが、「耳が聞こえない」役にスポットライトが当たるドラマ(具体的なドラマ名を挙げるのは避けますが)で手話を使っていた俳優の属性の大多数は聴者です。

そのような映像作品に出演して収入を得るのも、脚本を書くのも、ディレクターも、監督も聴者です。そしてキャリアを得るのも彼らです。


手話歌

日本におけるろう文化の盗用の例の1つに手話歌というのがあります。
手話歌とは、歌に合わせて手話単語を振り付けのように使ってパフォーマンスすることを指します。

多くのろう者が手話歌を否定しているのか、理由は様々あります。

・そもそも文法的におかしい

・日本語と手話は別言語なのになぜ同時にやるのか

等々。

これは手話学習者であり聴者である私自身の考えですが、

「手話歌を作る→披露する→視聴者に影響を与える(+視聴者が影響を受ける)」

この過程に手話当事者=ろう者が存在していないのが問題なのだと思います。

動画サイトに手話歌をアップロードして閲覧数に応じて収入を得たり、その動画にポジティブなコメントをしている人のほとんどは聴者です。だから手話歌はろう者に嫌悪されやすい存在なのではないでしょうか。


こういうことが起きてしまうのは聴者がマジョリティ側だからです。マジョリティというのは、日々の生活で色々なことを自分たちに有利に運ぶ事ができる存在です。ある種の特権を持っているような感じです。

逆に、マイノリティがマジョリティの文化を搾取したり消費することはできません。ろう者は聴者の文化を搾取することは不可能です。それはマジョリティへの「統合」でしかありません。

私たちはマジョリティ


手話学習者の多くは聴者なので、「ろう者」「聴者」の枠組みでいったらマジョリティ側です。
この2つに限らず、全ての文化は尊重すべき存在ですが、異文化コミュニケーションにおいて、常に社会における影響力が同等である2つ以上の文化が交わるわけではありません。だから手話を勉強するときには「手話を搾取しない」ことをしっかり心に留めるべきです。

手話は表現のツールではなく言語であること

この認識は異文化として手話やろう者と関わる上で重要なものである、と自戒も込めて、ここに書き残します。


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