【天才の創作法】「脳の認識を描く/宮崎駿」

天才の真似は難しい?

今回は、風の谷のナウシカ、千と千尋の神隠し、風立ちぬ、等々で有名な宮崎駿監督の創作法を紹介する。

鬼滅の刃 無限列車編で記録を塗り替えられるまでは、日本映画界最高の興行成績を誇った作品を世に送り出し続けてきた日本有数の映画監督の一人だ。

作品の宣伝も兼ねたドキュメンタリー作品に良く出演する為、画面を通して表面的な人柄を知っている人も多いだろう。

スタジオジブリを率いてヒット作を世に送り出し続けてきた監督が使う創作法の一つを、今回は紹介する。

見たままを描かない

過去にドキュメンタリーや特集番組、関連書籍等で、宮崎駿監督はスタッフに「見て描くな」と言う言葉を投げかけた事がある。

だが、いざ描く時には入念な取材を行い、描くための資料を用意させ、しっかりと見せてから描く事を徹底している。

これは、一部を切り取ると勘違いが発生する。

見て描くなとは、見たままをそのまま描くなと言う事と、全てを想像で描くなと言う事だ。

だから、事前に資料を見て、取材をして、しっかり情報を頭に叩き込ませ、それから「頭の中で画を構築」してから、それを描く様にさせる。

なぜ、そんな事をわざわざさせるのかと言うと、人の視覚情報が基本的に認識によって歪んでいる為に、その歪みに寄せた絵を描く必要があるからだ。

客観視と主観視、網膜像と知覚像

人は、目を通して物を見る。

その際、網膜を通った光の情報は脳に到達すると認識で歪められる。

なので、カメラの様な機械で撮影した風景と、目のレンズを通して生で見た風景は、全く違く見える。

生で見るのと写真や映像で見るのでは、同じ風景でも感動が違うのは体感として分かるだろう。

カメラのレンズと言うフィルターを通し、写真や映像と言う形に落とし込むと、その時点での風景は客観的に誰が見ても似たような状態に定着して見える形を取る。

だが、網膜と言うフィルターを通して見ると、その時点で人の脳によってフィルターに差が出る。

同じ場所に立っても、人それぞれ同じ風景なのに注目するポイントが異なってくる事だってある。

客観的な画には、ありのままが写る。

だが、そこには、特定の感動が弱い。

モチーフや描画・撮影の技術力には力があるが、表現としては客観的過ぎて感動が弱いのだ。

一方で、主観的な画には、観察者の感じた臨場感が加わる。

すると、そこには、特定の感動に繋がる状況の再現が可能となる。

見た物の大きさの恒常性

知覚像は、網膜像とは全く違う。

見ている世界が事実に思えるかもしれないが、それは脳が認識し、オートマティックに編集した知覚像の世界であって、現実は写真で記録する様な網膜像に近い世界だ。

この差は、かなり意識しないと気付きづらい。

大半の人は、いつも歪んだ世界を日常的に見ているので、歪んでいない世界の存在を、通常は意識する事が無いからだ。

この歪みが大きく出るのが、見た物の大きさに現れる恒常性だ。

これは、遠近感で顕著に表れる。

左右の手を前後にずらして見ると、本来なら遠近法と同じ様に奥の手が小さく見え、手前の手が大きく見える。

実際、そう見えるが、本来の遠近法に比べると、両手の大きさの差が小さく認識されてしまうと言う現象が起きる。

これが知覚像の歪みで起きる事だが、これが平常運転であり、正常な脳の処理だ。

他には、月を見ると肉眼だと大きく見えるが、写真に撮って見ると驚くほど小さく写って感じる事がある。

山に行っても、肉眼だと雄大な景色が、写真でみるとそこまで感動できないなんて事は珍しくない。

この、大きさをある程度一定に認識する脳の機能によって、見る物の大きさを実際の大きさに自動的に近づけて認識する事で、遠近感を無視したスケール感を感じる事が出来る。

このスケール感の体感によって、置いてある物を掴む時に、そのサイズを脳が最適に自動認識して、掴みやすくしたりも、しているわけだ。

歪んだ主観的認識こそが、人間にとっては馴染み深いいつもの視点であり、主観視点だからこそ感じられる感動と言う物が存在する事を、まず認識して欲しい。

観察による客観視

一方で、絵を描く時にモチーフを観察して描くには、脳の認識の歪みを小さくして、客観視しながら描く必要がある。

写真みたいな写実的な絵を描くには、ありのままを、そのまま紙の上に写す必要がある。

そうしないと、遠近法も何もかもが出鱈目になってしまう。

細部を省略したり、特徴を強調しては、全体のバランス・デッサンが狂ってしまう。

問題は、絵を長年上手に描く練習をしてきた人は、物を見ながら観察して描くと、脳が客観視しようとして、網膜像を描こうとする事にある。

写実的に描く場合は、それで問題は無い。

だが、知覚像を描こうとする場合は、大きな問題が発生してしまう。

先にも書いた通り、網膜像を客観視した写真には特定の感動が弱い。

絵で感動させるには、客観視出来る主観の絵、知覚像を描く必要があるのだ。

客観視できる主観の世界

見て観察した物を、そのまま網膜像として描くのではなく、脳で知覚像として変換してから描く。

そうする事で、客観視できる主観の画を描く事が出来る。

原理が分かれば、もしかしたら簡単そうに思えるかもしれないが、そう簡単でもない。

これは、写実主義(現実をそのまま表現する)を習得した後で、キュビズム(遠近法や写実表現の放棄)へ転向をする様な物だ。

そこまでして、ようやく客観視できる主観の画を、アウトプットする事が出来る。

これには、実写では出来ない、大きな利点がある。

写真や実写映像では網膜像になってしまう所を、アニメーションでは絵を知覚像に近づける事によって、知覚像でしか感じる事が出来ない臨場感を持たせる事が出来るのだ。

だから、宮崎駿監督の作品は、圧倒的な臨場感と迫力を備えている。

だからこそ、アニメーションに対して大きな感動を見る人は覚える。

ある意味で、場面によっては遠近法も写実表現も放棄している。

だが、ただ放棄しているのではなく、主観と言うフィルターにチャンネルを合わせた上で、主観的遠近感で描いているのだ。

通常では脳が気付けない表現「知覚像の網膜像化」によって、絵を網膜像として見ている者に、網膜像で知覚像を流し込む事で、結果的に知覚像と錯覚させると言う職人業を行っているわけだ。

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