「呪詛の狐」

 夕闇に包まれゆく、とある山。
 母からとある文を受け取った、洋装の青年、和照(よりてる)は、辛うじて残る夕闇の明るさを頼りに、馬を駆けさせていた。馬の強靭な脚が山道に打ち付けられる度、後ろで1つに結ばれたやや長い髪が、激しく揺れた。
 余り上等とは言えない山道を駆けさせるのは悪いなと、心の中で馬に詫びながら、和照は馬と共に息を切らし、目的地を目指していた。

 ──呪狐(じゅぎつね)が出た。お前の力を、貸して欲しい──。
 母の名で届けられた文には、そんな事が書かれていた。
 この文を読んだ和照は、その一文に驚愕した。そしてそれと同時に、自分の心ノ臓が、一瞬にして凍り付いたのを感じた。
 そして、その文に記された被害の、大まかな内容を読み、決断を下したのだった。
 都近郊のとある街で役人務めをしている和照は、上役に「家族が危篤である」と言う、虚偽の事情を話した。そして、その日の務めを急遽休むと、必要な物だけを持ち、ほぼ着のみ着の儘の状態で、汽車へと飛び乗ったのだった。
 そして1日半、汽車に揺られ、故郷の集落に近い街で下車すると、馬を借り、嵐の如く駆け出した。

 ──急げ・・・・・・急げ・・・・・・!──。
 馬の手綱を握る和照の手に、力が入った。
 夏も終わり、秋の風が吹き始めている空は、日没がやや早くなっており、急ぐ和照から、僅かな明かりを容赦無く奪いつつあった。
 もう直き故郷に着くと言う想いが、焦る気持ちを助長させ、和照は、頭に血が上っていたのだった。

 少ししてやっと、故郷の集落の出入口を示す2つの篝火が、和照の瞳の中で揺れた。
 ──和照の故郷は、古から宿場町として栄える、人口1000人にも満たない程の小さな集落だった。
 四季の実りに恵まれ、普段は大勢の観光客で賑わっている筈の、美しい故郷・・・・・・。それが今、とある「災い」に曝されていたのだった。
 出入口直前迄来た瞬間、本来なら存在しない筈の守衛を務める2人の年の近い青年が、和照を睨んだ。そして、その内の1人が掌を開き、腕を伸ばした。
 「その馬止まれ! この集落は今・・・・・・」
 しかし、叫びながら馬を制した青年は、篝火が照らした和照の顔を見て、言葉を詰まらせた。
 もう1人の青年も和照に気付いた。
 「私は和照。今、道を急いでいる! すまないが、馬で通らせて貰う!」
 和照は声を張り上げ、馬の腹を強かに蹴った。その瞬間、棹立ちになった馬は、怒る様に嘶くと、2人の青年の間を駆け抜け、集落の中へと消えて行った。
 「あ・・・・・・、和照さん!」
 背後から、守衛の青年の震えた叫び声がした。
 その声は、和照を乗せた馬を追い掛ける様にして、集落の薄闇に溶けていった。

 足場の悪い山道とは違い、俗に「宿場町」と呼ばれる集落の石畳の道は、馬にとってもとても走り易かった。
 所々にある提灯は、程好い灯りとなっていた。
 その為和照は、通行人が馬と接触しない様、万が一の事態に気を引き締めながら、馬を駆けさせていたのだった。
 ──もう直ぐだ──。
 額に汗を浮かべながら、和照は、薄暗い宿場町を見渡した。
 ──何故だ・・・・・・?──。
 外は不気味な程に、人っ子一人居なかった。それどころか気配を殺し、集落には人が居ないと何者かに伝えているかの様な緊張感に、包まれていたのだった。

 目的地に到着し、馬の蹄の音が落ち着いた瞬間。家の戸口が勢い良く開き、中から、不安げな表情を浮かべた母が現れた。
 「和照・・・・・・!」
 和照の母は、震えた両腕を伸ばしながら、馬を降りる息子に小走りで駆け寄った。全力を出し切った馬は、口から泡を吹き掛けていた。
 和照は、そんな馬を労う様に頭を撫でると、
 「母さん・・・・・・」
 と言いながら馬から離れ、母に歩み寄った。
 母の背を当に越えていた和照は、その逞しい腕で、母の小さな体を静かに・・・・・・しかし、守る様に強く抱き締めた。
 「良かった。お前が来てくれて・・・・・・」
 とある恐怖を意識の片隅に、声を震わせながら、息子の耳元で母は呟いた。その母の頬を、涙が伝った。
 和照は、そんな母を落ち着かせる為に、母のその細い背を何度も優しく擦った。その時、
 「兄さん・・・・・・」
 と、続いて家の中から、和照の3つ下の妹、美緒(みお)が現れた。
 美緒も母親と同様、不安げな表情を浮かべ、今にも泣き出しそうな目で和照を見詰めていた。
 「美緒・・・・・・」 
 和照が、母から体を離し、久しく見た妹を抱擁しようとした時だった。
 「カノヤさんの所の、奥さんが・・・・・・」
 息子の腕から、解放されたばかりの母が、嗚咽混じりの声を漏らした。
 「え・・・・・・?」
 美緒の元へ歩み寄ろうとしていた和照は、母のその言葉に思わず歩みを止め、振り返った。
 母は両手で顔を覆い、大粒の涙を流していた。
 ──遂に、夕闇から宵へと移った集落で、秋風はその冷たさを更に増して吹いていた。


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