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生き延びた女の話 前編

私の子供時代は控えめに言ってもクソだった。                  

父は高校を卒業後、集団就職でこの町にやって来て、30を過ぎてから同郷の母と見合い結婚をした。

父は仕事ができた方だったので最初は出世したが、やがて頭打ちになり、そして大卒の人たちに次々と役職を抜かれていった。自分より仕事ができないと思っていた後輩が上司になる。やり場のない鬱々とした気持ちはとりあえず酒とパチンコで晴らしていたようだった。

稼ぎは悪くなかったが、給料はほとんど飲み代とパチンコ代に消えた。それだけでは足りずに同僚や友人からも借金をしていたらしい。いつだったか、母が居間の隅に蹲って「お父さんが今月のお米代を持ってった、パチンコ行くって」とメソメソ泣いていたことを覚えている。

母は専業主婦、あまり要領の良くない人だった。だいたいいつも、もったいない、めんどくさい、難しくてよく分からない、と言っていた。また、私が本を読むと「目が悪くなるよ」と言い、お菓子を食べると「虫歯になるよ」と言った。

3つ下の弟は母にそっくりで、間の悪さと気の弱さがピカ一だった。

私が小学校に上がる頃、母が胃腸炎で入院をした。母方の祖母が私と弟の世話をしに来てくれたが、数日の予定だった入院が1週間近く及ぶと父は怒り狂って、入院中の母に「いつまでサボるつもりや」と当たり散らした。

この頃、父は職場の覇権争いに巻き込まれていた。もうすぐライバルを蹴り落して、父の属する派閥が実権を掌握する一歩手前というところで、突然派閥トップの専務が病に倒れ、戦局がひっくり返った。報復人事は露骨で、父は子会社に出向となった。そして積もり積もった鬱憤を、父は家族に八つ当たりして晴らすことに決めたようだった。

外が暗くなり始めると我が家に緊張が走る。父がいつ帰って来てもおかしくないからだ。そして第一声で機嫌が分かる。

機嫌の悪いときは最初からフルスロットルで「俺が仕事しとるのに遊んどったんか/飯食っとったんか/風呂入っとったんか、イイ身分やの?」あたりから始まり、目の前に私と弟を立たせて支離滅裂な説教を延々と垂れる。話は長く、怒鳴ったり、凄んだり、私たちの人格を否定してこき下ろしたりして、泣いても謝っても、父が満足するか飽きるまで止むことはなく、言葉の限りを尽くして満遍なくいたぶられた。これは仮に勉強をしていたところで免れるわけもなく「俺の話より大事な勉強なんてあるか」と逃げ道は全て塞がれて抜かりなかった。

機嫌のいいときは、「じゃあ熱燗つけてもらおか、なんかうまいつまみはあるか」と飲み始めて、4本くらい空けたところで呂律が怪しくなり、私と弟を呼びつけて目の前に立たせ「日本の将来について各々の意見を述べよ」などと絡み始める。黙っていると「黙っとっちゃ分からん」とイライラしてくる様子が窺えるので、小学生の頭で何とか捻りだして答えれば「そんな浅い考え、学校で何を習ってきた」となって、最終的は上のパターンに帰結する。

そんな中母は何をしているのかというと、気配を消して父の酒やつまみを用意しながら、そして絶妙なタイミングの悪さで止めに入ったり反論したりするので、父は益々怒り狂って話が終わらない。あまりに張り詰めた空気に耐えられず、弟は時々泡を吹いて倒れた。

クソみたいな毎日が延々と続き、もちろん私と弟が中学生になっても変わらなかった。友人たちは思春期特有のふてぶてしさで親を邪険に扱い始める時期だが、我が家の序列は一度だって入れ替わったことはなかった。弟が一度「うちっておかしくね?」と言った。私は「今頃気づいた?」と言った。私は誰にも助けを求めず、じっと息をひそめて日々を過ごした。弟も同じだった。

直接手を上げられたことは1、2度しかないが、父は時々自分の怒りの激しさを示すために物を壊すことがあった。母と弟はあまりものに執着するタイプではなかったので、父は私が大切にしているものを壊したがった。だから私の地球儀も、銘々皿も、父への土産に買った絵馬も、みんなとうの昔に粉々になってもうここにはない。朝起きて、キッチンの外に散らばった地球儀のかけらを拾ったとき、こんなことで傷ついてはいけない、自分を守らなければと思ったのに、心が勝手に冷えて苦しくて、私はこの光景を死ぬまで忘れないだろうと思った。私のすぐ後に起きてきた母が「怪我するから触らんどき」と言ったそのセリフの白々しさがこれ以上ないくらい滑稽で、この日が私の人生に置けるクソの極みだったと思う。

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